歴史評論

 

 

 白鳳の微笑

 

 大津皇子の死をめぐって

 

<1975年1月 文芸同人誌『箋』2号に掲載>

 

 

興福寺(旧山田寺)仏頭
興福寺(旧山田寺)仏頭

 

 

 うつそみの人にあるわれや

明日よりは二上山を

弟世(いろせ)とわが見ん

 

  大津皇子(おほつのみこ)の実姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠ったこの歌(万葉集巻二)を、僕は二上山(ふたかみやま)を見るまで意に介することがなかった。それは大津皇子の短命な生涯とその時代、また大伯との姉弟の関係を充分、考慮に入れなかったからかも知れない。しかし、ただそれだけではないことが分かったのは、やはり二上山を見てからのことである。つまり二上山を実際に見て、この歌が持つ気分、その激越な調べが初めて僕の心に響き渡った。

 3年ほど前のことになる。わが国最古の道と称される“山之辺の道”を天理から桜井に向かって歩いたのだが、三輪山に差し掛かる車谷(くるまだに)という集落から二上山を仰ぎ見た。車谷という地点は、平野部から急な坂を登り初瀬山に向う途中の丘陵地で、巻向川(足痛川)の水流が泡を立て激しい勢いで流れ下っている。この川は平野に下ると初瀬川となり、さらに平城京・三笠山から流れ出す佐保川と合流、大和川となって奈良盆地を東から西へ横断し、葛城と生駒山系の間を縫って大阪湾に注いでいる。

 僕は半日余り歩き続けてきた疲れを癒そうと三輪山に通じる山道に腰を降ろし、奈良盆地を隔ててちょうど反対側、葛城山系の北端の二つの峰の二上山と真正面に対したのである。標高525メートルの雄岳と472.2メートルの雌岳。深い緑に覆われた二上山は陽が傾くにつれ、いっそう色濃く二つの峰を西の空に浮かび上がらせている。その容姿が、なぜか僕の胸に迫った。優しくおほらかだった。そして荘重だった、平野を隔て遠く離れているとはいえ、いや遠く離れているからこそ、思いは翔り、声を発して呼びかけたい衝動に駆られた。その時である。大伯の絶唱が、その調子の高い響きが聞こえてきたのは。雄岳の山頂に大津が眠る墓があるという。

 

 大津皇子、被死(みまか)らしめらゆる時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りましし御歌一首

    ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を

      今日のみ見てや 雲隠りなむ

 

 万葉集にみるこの歌を、斎藤茂吉は「臨終にして鴨のことをいい、それに向って『今日のみ見てや』と嘆息しているのであるが、斯く池の鴨のことを具体的に言ったために、却って結句の『雲隠りなむ』が利いて来て、『今日のみ見てや』の主観句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃、見給うたのであっただろうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語気は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである」(万葉秀歌)と評している。

 歌の出来、不出来はともかく、池に浮かぶ鴨に託した心持ちは、僕らの想像を絶するに余りある。死に向かう道中、瞬時足を停めて鴨に向う。もとより何事もなく水に浮き、あるいは岸辺で戯れる鴨たちが、これから決行される大津の縛り首の刑を知ろう筈もない。自己の命の行く末を鴨という自然界の一点景に託する空しさが、この歌の背後に呟きにも似た低い調子で波打っている。

「雲隠りなむ」とは、この世を去り雲の彼方、遥か黄泉(よみ)の国への出発を意味する。あえて「雲隠りするであろう」ことを自ら規定した意識の内奥には、生命の明るさや暗さとはまったく無関係に、死という事実だけを見詰める醒めた眼孔が冴々と光っている。すでに諦めを「諦め」として確認することを、この歌は述べている。

 やがて近づく本格的な冬を前に鴨は暖を求め、北国の何処からか飛んできたのであろう。現在の阿倍(あべ)文殊院(奈良県桜井市)から西へ1キロほどのところに所在したと伝えられる磐余の池へ降り立った。鴨はこれから寒さの冬を生き、大津は死出の旅に向う。

 

 

山の辺の道から奈良盆地を隔て葛城山系を望む。右端の二つの峰が二上山。左端が桜井市
山の辺の道から奈良盆地を隔て葛城山系を望む。右端の二つの峰が二上山。左端が桜井市

 

 天智2年(663年)、それまで朝鮮半島の利権を百済(くだら)との友好により支配していた大和朝廷が、唐ならびに新羅の両軍に白村江(はくすきのえ)の戦いで全軍壊滅に近い敗北を喫した年、大津は生まれた。娜(なの)大津(現在の福岡県博多)に生まれたので、その名が命名されたのであろうが、真偽のほどは定かでない。

 ただ近江朝の時代は滋賀津彦(しがつひこ)と呼ばれていたことや、大津より二歳上の姉大伯の命名由来(天皇の乗った船が備前の大伯の海に至った時に誕生したので大伯と名付ける)を考慮した場合、前者の出生地名がそのまま名前に転化されたものと推測する方が妥当のようだ。また大津、大伯の姉弟がいずれも倭(やまと)古京を離れ他国で生誕した理由は、百済救援を決意した朝廷が親王、諸臣の大半を従え北九州の地へと大軍事行動を開始したためである。もちろんこの時、二人の両親、父である大海人(おほしあま)皇子(後の天武天皇)と身重な躰ながら母大田(おほた)皇女(天智天皇の娘)も征西に加わっている。

 白村江の敗北以後、朝廷は称制の中大兄皇太子(なかつおひねひつぎのみこ=天智7年正月、即位して天智天皇となる)と内臣(うちつまへつきみ)藤原鎌足(かまたり)の大化の改新派、それに中大兄の実弟、大海人皇子を加えた三者連合による強固な政治指導体制を築き、敗戦がもたらした国政混乱の収拾に全力を傾注した。当然のことながら、この場合における諸政策も大化改新の精神、つまり人民を従来の氏族的擬制による隷属から切り離し、天皇(すめらみこと)が法と官人機構によって組織し支配する律令国家の創造という法則を基本的に崩すことはなかった。

 しかし、朝鮮半島戦略の失敗によって表面化した不平貴族への配慮から、改新政治の部分的妥協、もしくは後退を余儀なくされた面もある。一方、今後予想される唐大国の本土侵入を防備するための対馬・隠岐の両島を最前線基地とした国土防衛事業に着手し、北九州一帯に防人(さきもり)と烽火(とぶひ)を配置、また国都の安全と中大兄の即位という正常な王位復活の狙いを秘めて、都を飛鳥(あすか)の地から近江の琵琶湖畔に移した。これを通称、近江遷都という。天智6年(667年)3月のことである。

 この年、大津は5歳。しかし近江遷都を控えた2月、すでに母太田を失っていた。幼少にして母の愛情の恵みを剥奪された者は、たとえ皇帝の皇子として豊かな生活が保証されているとはいえ、心は孤独にして淋しいものだ。以後、大津はただひとりの姉大伯より他に心を許す者はいなかった。また41年間の生涯を独身で暮らした大伯とても同じこと、実弟大津ばかりが頼りであったろう。この二人は、これから波乱に満ちた数奇な運命を辿るが、それだけに姉弟としての愛情は並々ならぬ強いものがあったと想像される。

 

 日本書紀は幼少時の大津を次のように記している。「容止(みかほ)たかく岸(さが)しくして、音辞(みことば)俊(すぐ)れ朗なり。天命開別(あめみことひらかすわけの天皇=作者註・天智天皇)の為に愛(めぐ)まれたてまつりたまふ」と。また懐風藻の伝は「幼年にして学を好み、博覧にして能(よ)く文をつづる」と述べている。

 当時の近江朝廷は、わが国の青春時代の幕開けともいうべき華々しい宮廷貴族の生活が甘味なまでに繰り広げられた時期である。恋に歌に、夜ごとの饗宴に、そして朝廷が設けた標野(しめの=狩猟場)での大規模な遊猟(みかり)と、さまざまな遊興行事が間断なく行われていた。

 

  あかねさす 紫野行き 標野行き

    野守(のもり)は見ずや 君が袖振る  額田姫王(ぬかたのおほきみ)

 

  紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば

    人妻ゆゑに われ恋ひめやも      大海人皇太子

 

 万葉集中における相聞歌の傑作として有名なこの歌のやり取りは、蒲生野(かまふの)での遊猟の際に取り交わされたものと伝えられている。この時の額田は、かって大海人に身を寄せ十市(とをち)皇女を産んだ妻としてではなく、中大兄の後宮であるとともに近江朝の“みやび”をつかさどる宮廷詩人として、皇族以下多数の宮廷貴族に取り巻かれていた。同じ万葉集巻一の彼女の長歌が、何よりも額田その人と近江宮廷の様相を物語っている。

 

 天皇、内大臣藤原朝臣(あそみ)に詔(みことのり)して、春山の万花の艶と秋山の千葉の彩りとを競はしめたまふ時、額田王、歌を以ちて判(ことわ)る歌

  冬ごもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ

     咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず

   秋山の木の葉を見ては 黄葉(もみぢ)をば取りてそしのふ 青きをば置きてそ嘆く 

     そこし恨めし 秋山われは

 

 詞書にもあるように、当時の宮廷内部は古代中国の風を習い、ことあるごとに饗宴が催されたが、その席で帝王自ら“風雅”について問題を投げかけている。そして鎌足がその意を宣し、額田が歌をもって応答したのである。たとえこのことが饗宴の余技であっても、いや余技であればなおさらのこと“みやび”の意識が公の場で、歌を通じて発揚された点に近江宮廷の特色が窺われよう。

 この歌は従来の民謡、寿歌あるいは戦闘を詠った歌謡などとはまったく異った観点から発想されている。政治や祭祀とは係わりのない一個人の表現が、狩猟時の戯れとはいえ、宴の余技であるとはいえ、放逸に詠われ出したことにこそ近江朝の面目をみてとらねばならない。それは改新政治建造の骨組みを唐制度に模したのと同様に、社会生活や文化意識においても外来思想を宮廷内部に呼び込み、これを真似たのである。

 万葉時代の直接の出発点として位置づけられる近江朝の文事の興隆の背景には白村江の戦い以降、先進的大陸文明をもって渡来した政治家、知識人、技術者、僧侶など百済人の集団が朝廷に起用され、さまざまな分野で活躍したことを見逃す訳にはいかない。即ち、それは宴遊の歌詠のみならず、漢詩において顕著である。

 

  皇明(クワウメイ)日月ト光(テ)ラヒ

  帝徳天地ト載セタマフ

  三才並(ミナ)泰昌

  萬国臣義(シンギ)ヲ表ワス

 

 懐風藻の冒頭の詩で、作者は懐風藻の伝によれば「博学多通、文武の材幹(さいかん)有り」と評される天智の長子、大友(おほとも)皇子である。さらにもう一首。

 

  懐(ココロ)ヲ述(ノ)ブ

   道徳天訓(テンクン)ヲ承(ウ)ケ

   塩梅真宰(シンザイ)ニ寄ス

   羞(ハ)ズラクハ監撫(カンブ)ノ術(ワザ)無キコト

   安(ナニ)ゾ能(ヨ)ク四海ニ臨マム

 

 父天皇の補佐役として、自分にその手腕がないと恥じている。おそらく、この作は天智10年(671年)正月、大友が太政大臣に就任した折、宮廷の宴席で披瀝したものと思われる。母(宮人、伊賀の采女宅子娘(うねめやかこいらつめ)の身分こそ卑しいとはいえ、他の二皇子の河島(かはしま)、施基(しき)に比べ「天性明悟、雅(もと)より博古を愛(この)ます」大友に父は将来を託した訳で、それに精一杯、応えようとする大友の意気が伝わってくる。大友の詩はいまだ漢詩の体裁を繕ったほどの稚拙なものに過ぎないが、外来文化に刺激された近江の宮廷サロンは歌詠とともに、詩賦の風をも共存させていたのである。

 この優美華麗な近江朝時代を、大津は10歳までの5年余りを過ごした。幼少とはいえ、伯父である天智に寵愛されつつ新風の文事に目覚めた宮廷内の雰囲気を、おそらく大津は鋭敏に察知したことであろう。事実、詩賦において大津は次の天武朝の中心的な役割を果たすことになる。それは万葉集に示される白鳳期歌人の張りのある一種、独特な高い調子を漢詩にして朗詠する壮年の“おたけび”、自由奔放、闊達な“ますらをぶり”の表現を獲得する。

 

 近江遷都以後の4年間、栄華を極めた宮廷は鎌足の死を境に衰亡の一途を辿り、ついには天智の死期を迎えた。天智10年秋9月、天智は病のため臥床(がしょう)の身となり、10月に入って病状はいよいよ悪化、近づく死の足音に脅かされながらも皇位継承について思いを巡らすが、その年の12月、大化改新を断行、古代王権の確立を目指して律令国家体制を構築した稀に見る思想の実践者は46年間の多端な生涯を閉じる。

 一方、皇太子となって天智の諸政策をバックアップしてきた大海人は、天智から後事を託されたにもかかわらずこれを辞退、後嗣に大友を立てるよう献言し、自ら髯髪を剃って沙門となり、数少ない側近と共に吉野宮に隠遁した。この時、草壁(くさかべ)皇子を除く高市(たけち)皇子、大津らの大海人の諸皇子は大津宮に停留する。

 しかし、天智の死に伴う大友の即位(弘文天皇)、大海人の出家によって、天皇王権が無事に引き継がれた訳ではない。わが国天皇家の皇位継承問題はこの時点に留まらず、前代もまた後代においても骨肉同胞の血で血を洗う凄まじい確執が展開されている。天智が後事を託した時、それを大海人が真正面に受けていたならば、たちどころに殺されていたかもしれない。

 なぜならば天智は大友の才幹に嘱目し、近江令の施行に伴って拡充された太政官の首座に皇太子大海人を差し置き大友を任命、実質的な皇位継承者に擬するよう至らしめていた。天智の心はすでに決っていたと見るべきであろう。大海人は使者、蘇我臣安麻呂(そがのおみやすまろ)の進言もあって、「天皇の病平癒を祈願して仏道修業する」との理由を申し述べ近江大津宮を去り、来るべき時期を杉の生い繁る吉野山中で待つのである。

 

 それから半年余りを経た弘文元年(672年)、壬申の年6月24日、大海人は王権の占奪を深く心に期して東方の軍事拠点へ向い吉野を進発した時、畿内一円から東国(美濃、尾張)に跨る大内乱、壬申の乱の幕が切って落された。大海人の軍勢はわずか20人余り、それに妃菟野讃良(みめうのささら)皇女(後の持統天皇)をはじめ側近の女官十余人の寂しい出立ちであったが、夜を徹して伊賀、伊勢を進軍、翌25日には挙兵の報で大津宮を脱出してきた高市と、26日には鈴鹿の関で大津一行と相会した。またこの日、大海人に従う美濃の師三千人は不破関を塞いだ。22日に美濃の挙兵を命じてから、わずか4日にして鈴鹿、不破を制圧、同時に広大な東国全体を近江朝の支配から切り離したのである。

 父大海人は全軍の統師に委任した高市に問う。

「其れ近江朝には、左右大臣及び智謀(かしこ)き群臣、共に議を定む。今朕(われ)、與(とも)に事を計る者無し。唯幼少(わかき)儒子(こども)有るのみなり。奈之何(いかに)かせむ」

 すかさず高市は腕を掻き脱ぎ、剣を握り締めて答えた。

「近江の群臣、多(さわ)なりと謂(いえど)も、臣(やつかれ)高市、神祇の霊に頼(よ)り、天皇の命を請(う)けて、諸将を引率て征討(う)たむ。豈(あに)距(ふせ)くこと有らむや」

 この時、高市は若干19歳、大海人の十皇子のうち最年長者である。

 一方、近江宮廷は大海人の東国入りを聞いて、「群臣のことごとく恐れ怖じけ京内は震動」した。筑紫、吉備両国へ使いを出し挙兵の勅命を発したが失敗、また倭古京における近江朝勢力も大伴連吹負(むらじふけい)を将軍とする大伴家一族によって攻略される。近江朝は東方からの強大な勢力と倭における戦闘の両面から圧迫され、さらには大勢不利と見て吉野側に就く貴族、地方豪族の寝返り、離反によって、ついに7月22日の瀬田川の合戦で覆没した。

 大海人の挙兵からちょうど1ヶ月、翌23日に大友は逃亡の道を塞がれ長等(ながら)山の山前(やまさき)に引き返し、自ら首を括(くく)った。左大臣蘇我臣赤兄(あかえ)、右大臣中臣連金(なかとみのむらじかね)は大友を守護することを忘れ四散し、わずかに「物部(もののべ)連麻呂、また一人二人の舎人(とねり)のみ」が殉じたと、書記には記されている。

 しかも大友の妃である十市は夫と共に行動せず、十市の母額田も戦禍を免れるなど、大友を頂点とする王権がいかに弱体質であったかが知れる。それは大友の母が天皇家の血筋を曳く者ではない宮人の出身であるがため、朝廷内外の諸王、諸臣が登嗣位(あまつひつぎしらさむ)者を密かに大海人と看なしていたという、裏返しの理論が成り立つ。この情況を大海人は巧みに利用したからこそ、王権の座を勝ち得たともいえよう。大友の首級が不破郡野上に本陣を置く大海人の前に差し出されたのは、それから3日後のことである。この時大津は10歳、皇位継承に関わる天皇家の宿命を垣間見た筈である。

 かくて琵琶湖周辺を中心に繰り広げられた壬申の乱は終熄した。乱のさ中、吉野側の吹負と河内国から進入してきた近江の将、壱岐史韓国(いきのふびとからくに)との合戦場、當麻(たぎま)の郷も今はひっそり静まり返っている。この後9年経って、この地に当麻寺(たいまじ)が創建された。

 

 ゆったりとした稜線を描く奈良の山々は、いまだ夏の気配を残し深い緑に覆われていた。しかし平野部では稲の穂が黄金色に色付き、やがて始まろうとする刈り入れを待つばかりとなって、大和野原を吹き渡る風にそよいでいる。9月も中旬のある日の昼下り、僕は当麻寺へ向う山道を歩いた。思わず腕を摩りたくなる涼しい風が、眼前に迫る葛城山系の峰の上から吹き降ろしてくる。山道の脇に立つ樹木の葉はカラカラと乾いた音を立てている。

 当麻寺は近鉄南大阪線・当麻寺駅から歩いて10分ほど、西に向う一本道を、その両側に並ぶ檜造りの家屋を見やりながら行く。昔を偲ばせる家々の造り、その茅葺の屋根の上から駱駝の背のような突出た二つの峰が時折、見えたりもした。二上山である。

 当麻寺は寺伝によると、推古天皇20年(612年)河内国に草創され、修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)のゆかりの地である今の場所に天武9年(681年)移されたとある。初めは万法蔵院と号し、三論宗の寺院であったが、弘仁年間には真言宗となり、藤原時代には興福寺の勢力に吸収されて法相宗に転向、今日に及んでいる。当時における金堂、講堂、そして東西2基の塔が完成したのは天武13年(685年)で、この時代の前後を“白鳳時代”と呼んでいる。

  

当麻寺の東塔と西塔
当麻寺の東塔と西塔

 

 壬申の乱の翌年(673年)2月、大海人は即位して天武天皇となり、妃菟野讃良皇女を皇后に冊立した。天武43歳、皇后(きさき)29歳である。このほか天武には9人におよぶ妃、夫人(おぼとじ)、宮人と称する妻がおり、これらは10皇子、7皇女の母となっている。やや蛇足の感も免れないが、この仔細を母と子の関係で列記してみると、次の通りである。

  皇后菟野讃良皇女=草壁皇子

  妃大田皇女(死亡)=大伯皇女、大津皇子

  妃大江(おぼえ)皇女=長(なが)皇子、弓削(ゆげ)皇子

  妃新田部(にひたべ)皇女=舎人(とねり)皇子

  鎌足の女(むすめ)氷上(ひかみ)娘(いらつめ)=但馬(たじま)皇女

  鎌足の弟(いろど)五百重(いほへ)娘=新田部皇子

  蘇我赤兄の女大蕤(おぼぬ)娘=穂積(ほづみ)皇子、妃(きの)皇女、田形(たかた)皇女

  鏡王(かがみのおほきみ)の女額田姫王=十市皇女

  胸形君(むなかたのきみ)徳善の女尼子(あまこ)娘=高市皇子

  宍人(ししひと)臣大麻呂の女榖媛(かじひめ)娘=忍壁(おさかべ)皇子、磯城(しき)皇子、泊瀬部(はつせ  べ) 皇女、託基(たき)皇女

 このうち皇后をはじめ妃と呼ばれる4人はいずれも天智の娘で、大田と菟野は蘇我倉山田石川麻呂の女遠智(をち)娘が母である。また10皇子の長幼の順序はさまざまな見解があって統一化されていないが、青木和夫の研究によると、高市、草壁、大津、忍壁、磯城、舎人、長、穂積、弓削、新田部の順となっている。従って大津は第三子に当る。(作者註・懐風藻の伝には「長子なり」とあるが、壬申の乱などの歴史的事項、位階の順序を他の兄弟と比較検討した場合、ここでは書記が示す「第三子」説を採る)

 

 壬申の乱の平定しぬる後の歌

   大君は神にし坐(ま)せば

      赤駒の匍匐(はらば)ふ田井を都となしつ

 

「大君は神にし坐(ま)せば」と壬申の乱に活躍した将軍、大伴連御行(みゆき)をして詠わしめた王権の座に、大内乱の流血を代償としてあがなわれた神聖の座に今、天武は就いたのである。そして乱が終焉した時点でも崩壊されずに残った27年前の改新思想の成果、天皇専制による律令国家体制をさらに推進すべく、強力な政策が打ち出されていく。天皇を空(そら)みつ倭国の唯一絶対の権力とし、天下公民(あめのしたおほみたから)を統一的に掌握する徹底した官人支配による国家秩序の確立――これが白鳳時代といわれる天武、持統、文武の三代に亘る根本思想であった。

 即位して天武がまず初めに手をつけたのは、宗教上の制度や施設の充実を図っていくことだった。それは「天に双つの日無し。国に二人の王無し。是の故に天下を兼ね併(あは)せて、萬民(おほみたから)を使ひたまふべきところは、唯天皇ならくのみ」とする思想基盤が、すなわち国土創造の神の子孫である“現為明神”(あきつみかみ)という実証の上に支えられている以上、天皇自ら神祇の祭祀を掌らねばならない理由による。

 即位の翌月には川原寺で一切経を書写させ、続いて4月にはしばらく中絶していた斎宮(いつきのみや)の制度を復活させ、大伯を天照大神が祀られる伊勢神宮に派遣した。斎宮とは天皇歴代ごとに伊勢大神宮に遣わし、天皇の名代として奉仕せしめる未婚の内親王のことである。この時大伯は14歳、以後大津とは離ればなれに暮らすことになる。この世襲制度の復活は、壬申の乱において伊勢神宮の神風が吉野方に加護してくれたとの理由からである。

 さらに天皇は官人を組織、育成する一方、諸氏の私有民である部曲(かきのたみ)=民部や親王諸王および諸臣、諸寺に与えられてきた採草、狩猟、漁撈、灌漑の占有権を全廃するなど、具体的な公地公民政策を打ち出しつつ、同時に神仏信仰を氏上ベースから国家的規模にまで拡大、統制していく。この一連の施策により、従来の族長たちによる部(べ)の組織が解体されるとともに、全国の土地人民がすべて天皇王権の下に結集される構造が出来上がり、7世紀後半、名実ともに法令による国家が出現したのである。

 天武朝が一貫して進めてきた理念は、以上述べたごとく唐制を模倣した律令国家造りであった訳だが、その諸政策が政治、経済面だけではなく宗教儀礼にまでおよんでいたことが大きな特徴としてあげられよう。天武4年(676年)11月には使いを諸国に派遣して金光明経、仁王経を説かしめたが、この時の金光明経の教えは後年における国分寺(金光明護国寺)創建の思想的先駆を成している。また経典の講説、写経、誦経にとどまらず、天武朝発足の年、造営半ばにして中断されていた高市大寺(大官大寺、後の大安寺)の造寺司4名を任命したのをはじめ薬師寺の造立発願、さらには天武6年(678年)造立銘がある興福寺の仏頭(元山田寺丈六仏の頭部)が代表するように、造仏事業にも手を広げていった。

 このように仏教が神道との共存共栄により律令国家護持の呪術としての機能を果たし得たことは、天智朝が仏教を単に人事の統制として利用したのに比べ、明らかな相違がみられ注目される。また、人間精神を内面から改造する精神原理として受容した聖徳太子の推古朝とはまったく別の次元から、律令王権に相応しい国家護持の効験あるものとして仏教を全国的規模にまで拡充した点に、天武朝の面目がある。

 信仰表現としての外形的事業である仏像にしても、後に開眼供養が行われた薬師寺金堂の薬師三尊像をはじめ同東院堂聖観音立像、法隆寺講堂壁画、同五重塔塑像群、同夢違(ゆめたがひ)観音立像など高度な芸術的円熟に到達する基盤が、天武朝を発端に形成されようとしていたのである。これら仏像に表現された柔和で“おほらか”な、しかも力強い雄渾気宇の様相は、軒昂たる律令国家支配者らの“ますらを”の意気をそのまま反映しており、外来文化を従来の伝統的文化形態に組み込み、わが国独自のものとして昇華した白鳳時代が次の持統朝によって完成をみることになる。

  

     当麻寺金堂 弥勒仏
     当麻寺金堂 弥勒仏

 当麻寺の表門である東大門をくぐると正面に金堂、その右手に講堂、この両堂の中央奥に曼荼羅堂がある。また東大門の位置からでは見届けられなかった塔が、境内を進むにつれて左手に東塔と西塔、2基の三重塔を確かめることができる。はじめは2基の塔が縦に並んでいるのを不思議に思ったが、後に金堂、講堂が南を正面にしていたことが分って、この寺も創建当時は南大門があって、それが正規の参詣の道筋であったと知れた。今日では南門および中門は存在していないが、この伽藍配置を想定した場合、奈良時代・聖武帝の代表的な例として示される東大寺の伽藍と一致する。つまり南大門と中門との間に右に東塔、左に西塔、そして中門を抜けると燈篭、次に金堂(東大寺でいえば大仏殿)、その後方に講堂が配置されるという構図と同様である。

 だが今は阿形と吽形の金剛力士が凄まじい形相(滑稽味もある顔つきだが)で立ち構える東大門が当麻寺の正面で、藤原時代に建てられた単層寄棟造り本瓦葺の曼荼羅堂が、同寺の本堂として西を背に東を向いて位置している。この御堂の本尊は中将姫(ちゅうじょうひめ)が織ったと伝えられる曼荼羅の模写、室町時代文亀年間の作である文亀曼荼羅である。今やこの寺は、浄土思想が流行した平安貴族の最盛期、関白道長が西方極楽浄土を夢想した阿弥陀如来を拝する東西の伽藍配置が主流を成している。

 仏は無言で僕らの前に立ち、無限な響きをもって多くのことを語りかける。この寺のもうひとつの本尊は金堂の弥勒菩薩(如来形)坐像。寺の創建と時期を同じくして造られたという塑像漆箔の丈六仏である。この仏を一見した時、僕は白鳳彫刻の夜明けを告げたといわれる興福寺仏頭の、あの明るい微笑を思い出していた。ゴム毬のように張りのある豊満な顔立ち、顔面いっぱいに広々とのびやかな弧線を描く眉と切長の眼、ふくよかな面貌の割に高く細い鼻筋、明快な輪郭線で形づくりながら柔らかに厚く盛りあげた唇、それらが渾然一体となって“白鳳の微笑”を造形している。また全体像は、特に筋肉の動きが見られず、やや茫然とした印象を抱かせる。仏の三道がなく、いきなり頭部から厚く肉付けされた胴体部に続き、その堂々とした躰軀をゆるやかな衣紋線によって包み隠している。

 およそ1,200年前の粘土の塊が、ここにある。そんな感じだ。今や金箔が剥げ落ちて像顕当時の絢爛たる輝きを失っているが、塑像特有のねっとりとした重量感が長い歴史の重さと呼応して、僕らの胸を打つ。そしてこの仏は、法隆寺に代表される飛鳥時代の彫像技法である中国・北魏様式とは決定的な隔たりがある。むしろインド・グプタ王朝の西方的要素を取り入れた唐芸術の特色が継承されているとする興福寺仏頭、あるいは白鳳仏の絶品と評される薬師寺本尊の薬師如来の面影に、この施無畏、与願の印を結ぶ弥勒仏が似ていると思うのは僕だけではあるまい。

 

 春苑言(ココ)ニ宴ス

  衿(クビ)ヲ開キテ霊沼ニ臨ミ 目ヲ遊バセテ金苑ヲ歩ム

  澄清苔水深ク 晻曖(アンアイ)霞峰遠シ

  驚波絃(イト)ノ共響リ 哢鳥(ロウテウ)風ノ與(ムタ)聞ユ

  群公倒(サカサマ)載セテ帰ル 彭澤(ハウタク)ノ宴誰カ論(カタ)ラハム

 

 大津皇子の文事の資質は、近江宮廷時代の“みやび”を経て、ここ飛鳥浄御原(きよみはら)宮廷で結実した。この詩は全体に大陸の文辞をそのまま引用し過ぎているせいか、言葉にやや固さが残り、従って表現に漢詩独特の流暢さがない。しかし前記の大友の詩と比較した場合、遥かに進歩の跡が窺われよう。

「宴に参加した群臣は酔い潰れ、さかさまに車に乗せられて帰る有様だ。陶淵明(作者註・東晋から宋にかけての詩人、五柳先生とも称す)が催した酒宴なぞ、この宴に比べたら論ずるに価値(あたい)しない」と大津は豪語する。後に盛唐の酒仙、李白も「淵明群スルニ足ラズ」と檄を飛ばすのだが、李白の生誕より先立つこと40年、すでに大津は漢文の素養を身につけ浄御原廷の“風雅”の舞台にデビューしたのである。書記には「長(ひととなる)に及(いた)りて弁(わきわき)しくして才学有す。尤も文筆を愛(この)みたまふ。詩賦の興、大津より始れり」とある。

“現為明神”即ち現人神(あらひとがみ)として、この世を治める神的権威を背景に公地公民政策を推進する天武王権は、今や新しい時代を切り開こうとしていた。それは飛鳥時代のように中国、朝鮮半島からの単一的な文化の導入ではなく、社会制度から仏教思想に至るまで律令国家に相応しい積極的な海外文化の受容、これに伴う多様な創造力の吸収である。大津は文事において、この新しい先兵たり得た。

 

 遊猟

  朝ニ択(エラ)ブ三能ノ士 暮ニ開ク萬騎ノ筵(ムシロ)

  臠(レン)ヲ喫(ハ)ミテ俱(トモ)ニ豁矣(クワツナリ)

  月弓谷裏(コクリ)ニ輝キ 雲旌(ウンセイ)嶺前(レイゼン)ニ張ル

  曦光(ギクワウ)己ニ山ニ隠ル 壯士且(シマシ)ク留連(トドマ)レ

 

 この力強い大津の詠い振り、その精神の昂揚は、まさに創造の意欲に満ちた時代を如実に反映していると言ってよい。「三能ノ士」とは天地人の三才を兼ね備えた“ますらををのこ”である。「獲物の肉を食らい、酒盃を傾ける……陽はすでに山の端に隠れたが、壮士(つわもの)よ! 今しばらくここに留まり、共に陶然としていよう」

 大津の詠歌は万葉集に4首、懐風藻に4首、また伝記も書記ならびに懐風藻にわずかに収載されているばかりである。従って大津の人となり、その性格と行動を具体的に知るには余りにも残された資料が少ないが、この「遊猟」の詩を読む限り、血湧き肉おどる青春が、今を盛りに息吹いている。果たして大津の年齢がこの時、何歳であったか知る由もないが、自分が気に入りの側近と共に狩猟し、自由に振る舞い、そして文を作る。この大津の一連の行動は、創造気運に燃えた天武朝の“ますらを”を示したものとして象徴的である。

 

  あしひきの山のしづくに

    妹(いも)待つとわれ立ち濡れぬ 山のしづくに  大津

 

  吾(あ)を待つと君が濡れけむ

    あしひきの山のしづくに成らまし ものを  石川郎女(いらつめ)

 

 万葉集におけるこの大津と石川の相聞歌もまた、短い大津の人生の最盛期に詠われたものと推察できる。さもなければ、このように率直で明るく「共に互の微笑をこめた」(万葉秀歌)調べは表われてはこない。さらに同じ石川と忍び合ったことを陰陽道の学者、津守連通(つもりのむらじとほる)が占い露わした時、大津は、

 

  大船の津守の占(うら)に告(の)らむとは

    まさしに知りてわが二人宿(ね)し

 

と、堂々と、何ひとつ臆するところもなく詠った。むしろ占いで露見されるであろうことを知っていながら、二人の愛情のために交換したという。おそらく恥を隠すための反語か、あるいは単なる戯言であろうが、いずれにしても自己の行動に何らはばかることのない雄々しい大津の性格と、これを許容する浄御原宮廷の雰囲気を思ってみることができる。

「状貌魁梧(じょうばうくわいご)、器宇峻遠(きうしゅんゑん)。壮(さかり)に及びて武を愛み、多力にして能(よ)く剣を撃つ」と懐風藻が伝えるごとく、大津は容貌大きく逞しく、人品(度量)が秀れて高く奥深い若者であった。それでいて決して驕らず、学と武に才能を発揮して、ひとり宮廷の人気を博していたのである。

  

  よき人の よしとよく見て よしと言ひし

    芳野(よしの)よく見よ よき人よく見

 

 天武7年(679年)5月5日、ようやく天武治政が軌道に乗り始めた頃、天武はかつての思い出の地、吉野宮に行幸した。この歌はその時、天武が詠ったものである。また同じく、この時に「……思ひつつぞ来(こ)し その山道を」と長歌を誦んでいる。壬申の乱後、初めての吉野参りに、天武はさまざまな追憶を甦らせ、そこに万感胸に迫るものがあったのだろう。この吉野で天武は、共に引き連れてきた皇后をはじめ草壁、大津、高市、河島、忍壁、施基の6皇子に問うた。

「朕(われ)、今日、汝等と俱(とも)に庭(おぼば)に盟(ちか)ひて、千歳の後に、事無からしめむと欲す。奈之何(いかに)」

 これに対し6皇子は共に「理実灼然(ことわりいやちこ)なり」と答えた。続いて大津より一歳年上の草壁がまず進み出て、

「天地神祇及び天皇、證(あきら)めたまへ。吾(おのれ)兄弟長幼、併せて十余王、各異腹より出でたり。然れども同じきと異なりと別(わ)かず、俱に天皇の勅に随ひて、相扶(たす)けて忤(さか)ふること無けむ。若し今より以後、此の盟の如くにあらずは、身命亡び、子孫絶えむ。忘れじ、失(あやま)たじ」と誓った。

 また、残る5皇子も草壁と同じように誓いを立てたのである。壬申の乱当時は年少が故、天武を失望させた諸皇子が今、こうして成人しつつあるのを眼の当りに見るにおよんで、天武は再び皇位継承の争いを起こすことのないよう、壬申の乱に縁の深いこの吉野の地で誓約せしめたのであろう。天武もまた「朕が男等(こども)、各異腹にして生れたり。然れども今、一母同産の如く慈(めぐ)まむ」と誓い、皇后もそれに和した。

 河島、施基は天智の息子であるが、この二人を含めた12皇子のうち、皇位継承候補は天皇家の血筋を母からも受けている草壁、大津、舎人、長、弓削の5皇子に限られている。が舎人、長、弓削の3人はまだ年少で、この誓盟の場に加わっていない。また高市は10兄弟の最年長であったが、母が宮人出身であるため皇位継承の対象者とはなり得なかった。

 かくして2年後の天武9年(681年)2月、天皇は皇后と共に大極殿に座し、親王諸王および諸臣を一同に喚び集めて浄御原律令の編纂開始を宣言するとともに、草壁を皇太子に立てた。別称、日並知(ひなみし)皇子尊(みこと)とも呼ぶ。

 天智、鎌足らの改新政府が大化2年(646年)正月、改新の詔を発して以来35年目、ここに新たな法体系を整備する時期がきたのだ。そして皇太子となった草壁は、父天武とともに律令修訂事業の中心的役割を担うことになる。また同時に「帝紀(すめらみことのふみ)および上古の諸事を記し定めること、即ち記紀の規範となる国家的な修史事業が河島、忍壁らを中心に始められる。

 是に天皇詔(の)りたまひしく、「朕聞く、諸家の賷(もた)る帝紀及び本辭、既に正実に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、その失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。故惟(こ)れ、帝紀を撰録し、旧辭を討覈(とうかく)して、偽(いつはり)を削り實(まこと)を定めて後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」とのりたまひき。時に舎人有りき。姓は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年は是れ廿八。云々。

 以上、古事記序文の一部を引用した。「邦家の經緯、王化の鴻基」ということでも解るように、天武が一体何をこの事業に求めていたか推察できよう。それは記紀神話に支えられた天皇王権の絶対的な確立と、これに伴う人身隷属の必然性を普遍化することであった。天武から持統、文武の時代におよぶ白鳳時代の骨髄は、この思想構造を抜きにして語ることはできない。

 草壁の立太子2年後の天武11年(683年)2月1日、大津は初めて朝政(みかどのまつりごと)を聴いた。当時の令制では21歳で授位任官する。つまり21歳になったので、国政に参画したのである。姉大伯は伊勢に行ったきりで久しく会うこともない。しかし、今の大津は草壁に次ぐ重要な地位にある者として国政に当り、その任務を追行していかなければならない。同時に大津の浄御原宮廷での人望は厚く、これに応えていかねばならなかった。

 個人的状況を超越して、父天武が進める国造りを補佐する立場に立たされたのである。朝政参加後の大津は、さまざまな法令の制定および施行、新しい宮室之地(みやもどころ)の選定作業、冠婚葬祭の儀、朝鮮半島・新羅使節との外交折衝などに関与するが、なかでも天武12年(684年)10月に断行された官僚社会の新しい身分秩序、八色(やくさ)の姓(かばね)の作成作業に取り組み、多忙な日々を送る。

 続いて天武13年(685年)正月には、冠位の改訂がなされた。これは八色の姓の制定と密接な関係があるもので、爵位の号を改め、階級をこれまでの26階(天智3年制定)から60階に増加させたのである。特に注目すべき点は、王と臣との位階を判然と区別したことで、明(みん)および浄(じやう)の名称がつく上位12階級までは天皇家の者だけに与えられる特権冠位だった。

 天皇の諸皇子はいずれも明の冠位は与えられなかったが、上位より浄広壱位に草壁、高市は浄広弐位、河島と忍壁に浄大参位が授けられた。そして大津には草壁と高市の間に位する浄大弐位が与えられた。ここに至って天武朝は完璧なまでに整備、秩序立てられた官人支配による律令国家を完成させたのである。

その後の天皇は諸王、諸臣、僧侶らに布や衣類、稲やカモシカの皮を与えたり、功績ある者に位階を贈ったり、食封(へひと)を増やしてやったり、あるいは課役(えつき)を免除もしくは軽減するなど恩典を供与するばかりで、特に目新しい政策を打ち出すことはなかった。ただ神仏の行事だけは以前にも増して積極的な行動をとっている。残り少ない天武紀の中で「諸国に、家毎に、仏舎を作りて、乃ち仏像及び經を置きて、礼拝供養せよ」との詔の記事が、なぜか気にかかる。

 天武14年(686年)5月、天皇は病に倒れた。前年9月の時の病気は大事に至らなかった。大官大寺、川原寺、飛鳥寺にて誦經を命じ、宮中でも金剛般若經の講説をしただけで事は済んだ。が、今度ばかりは違う。ただちに川原寺で薬師經の講説が始められ、宮中でも安吾(あんご=夏講ともいう)し、諸寺の堂塔をいっせいに清掃するなどした。また翌6月には草薙剣(くさなぎのつるぎ)を宮中に置いた祟りだというので即日、これを尾張の熱田神宮へ返したり、珍しい宝物を三宝(仏・法・僧)に奉ったり、考えられる病因を取除く施策が次々と実行された。

 しかし、天皇の病は重くなるばかりである。この年の7月20日、天皇の疾病平癒を祈って改元、朱鳥(あかみとり)元年としたが、一向に回復する気配はなく「天下の事、大小を問はず、悉に皇后及び皇太子に啓(もう)せ」と言い残し、9月9日崩御した。この時、皇后が詠った歌に、

 

  北山にたなびく雲の 青雲の

     星離(さか)り行き月を離りて

 

 律令制国家創造の具現者、天武は56年間の生涯を送ったと伝えられる。

 

  鎌倉以降の武家社会では下克上が通常のこととなる。武力の保有量、またそれを有機的に且つ合理的に行使する者が天下を掌握する。源頼朝は合戦の才能とそれを巧妙に誘導する政治的手腕に秀でた源家の嫡子として、部門勢力の一大根拠地を鎌倉に築いた。全国各地の族長を天皇支配から切り離し、武力による力の統制論理を提唱したのである。しかし古代天皇政権は、必ずしも武力によって強奪できるものではない。壬申の乱の勝者は天皇配下の者でもなく、地方の豪族でもなかった。“現為明神”として倭国に君臨する資格を有する者、即ち天皇家の血筋を曳いた天武その人であった。

“現為明神”という思想、天皇以外のあらゆる者に対し精神的な呪縛を強要するこの世襲制度は、大化の改新以来、強化されても弱体化することは決してなかったといってよいだろう。少なくても天智、天武の二代は、天皇専制君主の思想をより徹底、強固なものとするために、打つべき手を迅速に、また的確に講じてきた筈だから。だが、それにしても皇位は血族の死臭につきまとわれている。

 天武が死去してから15日経った。朱鳥元年9月24日、天武の殯宮(もがりのみや=埋葬まで死体を納めておく宮)の儀式が浄御原宮廷の南庭で始まった。その日のことである。天武紀はただ1行、次のように記している。

「是の時に当りて、大津皇子、皇太子を謀反(かたぶ)けむとす」

 また、持統称制前紀には「冬10月2日、皇子大津、謀反けむとして発覚(あらは)れぬ」とある。この両方の記事から謀叛の日と、またそれが発覚された日を確かめることは難しい。が、いずれにしても大津が天武の殯宮の行事の間隙を衝いて決起、草壁を筆頭とする朝廷の中枢を打倒し、王権を奪取しようとした、というのである。懐風藻の河島の伝によれば「始め大津皇子と、莫逆の契(ちぎり)を為しつ。津の逆を謀(はか)るに及びて、島則(すなは)ち変を告ぐ」と、河島が大津の謀叛を密告したと記している。そして大津はもとより、大津に欺かれた矢口(やくち)朝臣音橿(おとかし)、壱伎(ゆき)連博徳(はかとこ)、中臣朝臣臣麻呂(おみまろ)、巨勢(こせ)朝臣多益須(たやす)、新羅沙門(ほふし)行心(かうじむ)、礪杵道作(ときみちつくり)ら30余人が捕らえられた。

 また、懐風藻の大津の伝には「時に新羅僧行心というもの有り。天文卜筮(ぼくぜい)を解(し)る。皇子に詔(つ)げて曰はく、『太子の骨法、是れ人臣の相にあらず、此れを以ちて久しく下位に在らば、恐るらくは身を全(また)くせざらむ』といふ。因(よ)りて逆謀を進む。此の註誤(くわいご)に迷ひ、遂に不軌を図らす」と、行心が唆(そそのか)したという。ともあれ大津は逮捕され10月3日、譯語田(をさた)の舎(いへ)=かつての敏達天皇の幸玉宮(さきたまのみや、現在の奈良県桜井市の中心街)にて死を賜わった。時に24歳である。

 以上が“大津の変”といわれる事件の全容である。なんという、あっけなさだろう。しかしこれ以上、事件の詳細、その核心に迫ることはできない。とにかく急に事件は勃発し、あっけなく処理された。懐風藻の作者(大友皇子の曾孫、淡海三船ともいわれるが不明)は、思わず絶句している。「嗚呼惜しき哉。彼の良才を縕(つつ)みて、忠孝を以ちて身を保たず、此の姧豎(かんじゅ)に近づきて、卒(つい)に戮辱(りくじょく)を以ちて自ら終ふ」と。

 他方、謀叛事件が起る直前のことと思われるが、大津は秘密裏に姉大伯と伊勢で忍び会っていた。この事実は万葉集によって確かめることができる。

 

 大津皇子、密かに伊勢の神宮に下りて上りましし時の大伯皇女の御作歌二首

  わが背子を大和へ遣ると さ夜深けて

    暁(あかとき)露にわが立ち濡れし

 

  二人行けど 行き過ぎ難き秋山を

    いかにか君が独り越ゆらむ

 

 誰にも知られず単身、浄御原宮廷を抜け出し会いにきた弟をまた送り返す時、大伯が詠ったのである。しかも時節は「行き過ぎ難き秋山」と詠われているように秋、旧暦の7~9月。この3ヵ月間といえば、飛鳥の浄御原廷は日に日に病の度を増す天武を囲んで重苦しい空気が支配し、且つまた天武死後の慌しい混迷状態が続いていた時期である。これと「大津皇子、密かに伊勢の神宮に下りて」という題詞を思い合わせた場合、姉弟の再開と別離は何を物語っているのであろうか? 

 やや飛躍した推測が許されるのであれば、この時すでに大津は謀叛の決意を胸に秘め、伊勢の姉に会いに行ったとも考えられる。そして姉は弟の心を、それとなく了解したかもしれない。あるいは、天武の病を発端に宮廷内でひとり孤立化傾向を深めていく大津自身が、それを敏感に察知、やがて来るべき運命を自覚し、最後の別れのため姉の許(もと)に下ったのか? もちろんこれは推測の域を出ない。が、そのように大伯の歌は悲愴である。「いかにか君が独り越ゆらむ」と弟を思う大伯の胸の内は、露に濡れて冷たく凍りつくばかりであったであろう。

 

  経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず

    少女(おとめ)らが織れる黄葉(もみち)に 霜な降りそね

 

と詠じた大津。この黄葉と霜から類想して、

 

  天紙風筆雲鶴ヲ画キ 山棧霜杼(サウチヨ)葉錦ヲ織ラム

と「志ヲ述ブ」と題する漢詩を朗詠した。そしてこの詩の後句(転・結)を誰人か不明だが、次のように続けている。

 

  赤雀書ヲ含ム時至ラズ 

  潜龍(センリユウ)用ヰルコト勿(ナ)ク未ダ寝(イ)モ安ミセズ

 

 大津のつくった前句(起・承)は「天のごとく広い紙の上に風のごとく筆を飛ばし雲間に翔る鶴を描き、山がものを織る機(はた)となり霜が杼(ひ)となって紅葉という錦の織物を織る。このように自由にして美しい立派な詩文をつくりたい」と、漢詩に対する志を述べたものだが、後人の詩は「赤雀が書をくわえて飛んでくる(皇子が天子の位に就く)時はまだ来ない。潜龍(世に出ない聖賢の徳ある人)すなわち皇子はその時を待つべきであるが、それを待たず謀叛を起そうとして安眠もできない」として、大津の逆謀を揶揄している。果して語句が前句と呼応しているかどうか、はなはだ疑問であるにしても「潜龍用ヰル」機会がなかったことは事実である。

 

 それにしても書紀、懐風藻が述べるように、大津は謀叛を企て、あるいはこれを本当に実行したのであろうか。真相は今もって謎に包まれている。が、ひとつの手掛りとして“大津の変”と性格を同じくする事件が28年前に起きており、これが真相を掴む何らかの参考になるかもしれない。それは大津が生れる5年前、斉明4年(658年)11月、前代孝徳帝のただ一人の遺子、有間(ありま)皇子が蘇我赤兄の謀略で逆賊の罪に陥れられ殺され果てた事件である。書紀によると、事件のあらましはこうだ。

 斉明天皇(女帝)をはじめ皇太子中大兄ら朝廷一行が紀温湯(きのゆ=和歌山県白浜湯崎温泉)へ旅行している間、飛鳥の都の留守官を命じられていた赤兄が有馬に、王位を目指して兵を挙げるよう唆した。この時有馬は19歳、「吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり」と喜び答えた。その翌々日、赤兄の邸で有馬を中心に守君大石(もりのきみおほいは)、坂合部(さかひべ)連薬(くすり)、𦣪屋(いほや)連鰶魚(このしろ)らが具体的な戦略を打合せた。

 一説には、有馬が「まず宮廷を焼いてから五百人をもって二晩、紀伊の牟婁(むろつ)港を封鎖し、また早急に水軍を派出して淡路島との海路を遮ろう。さすれば温泉に居る天皇一行は牢獄に入ったも同然、ことが成し易い」と語ったともいう。

 この蜜謀の時、有馬の机の脚が折れたので不吉な前兆を予感してか、その日は互いに叛乱の誓いだけ立てて、ひとまず有馬は市経(いちぶ)の邸へ帰った。しかしその夜半、赤兄は物部朴井(えのゐ)連鮪(しび)を指揮官とする兵士を遣わして有馬の邸を包囲、この間に紀伊の女帝の許へ急使を走らせた。それから4日後、有馬は側近の新田部米麻呂(こめまろ)と前記の大石、薬、鰶魚らとともに紀伊の天皇行在所に護送されたのである。この途中、有馬は磐白(いはしろ)という海浜で悲しみ詠う。

 

  磐代の浜松が枝(え)を引き結び

    真幸(まさき)くあらば また還り見む

 

  家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を

    草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る

 

「松が枝を結ぶ」とは「草を結ぶ」と同様に、自分が結んだ後に再び見た時に結んであれば吉、解けていれば凶とする当時の旅の占いの一種である。

 斉明朝の実権者、中大兄は自ら有馬に問う。

「何故に謀反しようとしたか」

 これに対して有馬は、

「天と赤兄が知っている。吾はまったく解らない」

と、答えたという。尋問を受けた2日後、有馬は藤代(ふじしろ)坂まで連れ戻され、そこで絞首の刑に処せられた。同じ場所で米麻呂と鰶魚が斬殺された。また大石は上毛野国、薬は尾張国へ流謫され、この事件もまた、あっけなく処置されたのである。

 以上が“有馬皇子の変”の顛末だが、この書紀の記録を文字どおり鵜呑みにするには疑問点が多々残る。そもそも赤兄のとった行動自体、不可思議である。赤兄は皇室から信任されていたからこそ、天皇をはじめ諸々の側近が紀温湯に出掛け実権者不在の朝廷の留守官を命じられていた訳で、このように重要な任務を負っていた者が、果たして一個人の私的な理由から天皇家に対し反逆を企て、しかも唆した有馬に対し、さらにこれを裏切るという二重の謀略行為を想像してみることが可能だろうか。もしこれを肯定すれば、赤兄は皇室に媚(こび)を売り自己の地位や利権を高めようとする故に、若い有馬を利用したと見るべきか。

 それにしては、宮廷内外に女帝政治に対する不満が燻り続けている時期にもかかわらず、謀叛計画に参画した顔ぶれが余りに少なく、また大石、薬の刑は軽かった。後に二人は流謫の罪を解かれ、朝廷に復帰している。むしろこの事件は、中大兄、鎌足らの改新派政権に対し潜在的な不平、不満を抱く貴族が盟主として立て得る可能性が強い有馬を葬り去ることによって、これら貴族に楔を打ち込み王権を安泰化させようとして、中大兄、赤兄らが仕組んだ芝居と見るのが実相ではなかろうか。

 

“有馬皇子の変”と同じような発想点に立てば“大津皇子の変”もまた、書紀などの記述を今一度、見直す必要があろう。大津は才識兼備、武勇達者な誉れ高い若者として宮廷の人気者だった。そして草壁の次に位する天皇王家の皇子である。この大津を抹殺して、天武亡き後の皇太子草壁の前途を安定化させたいと考えるのは、子を思う母菟野皇后としてみれば当然働く心理ではなかろうか。大津以下30余人の反乱と規定されたこの事件の背後には、微妙に揺れ動く王権保持の思惑が浄御原宮廷の内奥部に脈打っていたと想像されるのだが……。

 この想像を裏付けるように、大津処刑後26日を経て、称制のまま権力の座に就いた皇后は次のごとく詔して、謀叛に関与した者のほとんどを勅許している。

「皇子大津、謀反(みかどかたぶ)けむとす。註誤(あざむ)かれたる吏民(つかさひと)、帳内(とねり)は已(や)むことを得ず。今皇子大津、已(すで)に滅びね。従者、当(まさ)に皇子大津に坐(かか)れらば、皆赦(ゆる)せ。但し礪杵道作は伊豆に流せ」さらに「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするに與(くみ)せれども、朕加法(つみ)するに忍びず。飛騨国の伽藍(てら)に徙(うつ)せ」と。

 皇后=皇太子のメイン王権を転覆しようと狙った大罪人をかくも早期に、二人を除きことごとく赦免しているとは驚くべきことである。この事実を踏まえて歴史家の多くは、皇后の所生である草壁の地位が大津によって脅かされるのを恐れ、暗に大津を孤立、挑発させ、謀叛へ追い込んだものと推測している。

 大津が処刑されたその日、大津の妻、山辺(やまへ)皇女は髪を振り乱し、素足のまま夫の許に駈け参じ、半狂乱になって殉死した。また二人の間には粟津子という皇子をもうけているが、これについてはいずれの資料にも記されていない。山辺の父は天智、母は赤兄の女常陸(ひたち)娘である。有馬を陥れた赤兄の因縁が、不幸にも孫娘にまでおよんでいる。そしてまた大津の謀叛により斎宮を解任された大伯は11月16日、足掛け13年振りに倭古京へ向った。この旅の道すがら大伯は詠う。

 

  神風の伊勢の国にもあらましを

    なにしか来けむ 君もあらなくに

 

  見まく欲りわがする君もあらなくに

    なにしか来けむ 馬疲るるに

 

 本来ならば嬉しい里帰りなのだが、大伯にとってはただ悲しいばかりであった。「あらましを」「あらなくに」と繰返し、何度も現実を確かめようとする。行き場のない怒りと悲しびが身体を駆け巡り、思わず「なにしか来けむ」と熱い血潮が込み上げてくる。

  

 臨終 一絶

  金烏(キンウ)西舎(セイシヤ)ニ臨(テ)ラヒ

  鼓声(コセイ)短命ヲ催(ウナガ)ス

  泉路賓主(ヒンシユ)無シ

  此ノ夕(ユウヘ)家ヲ離(サカ)リテ向カフ

 

 本文の初めに記した詠歌「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と同様、死に臨んで詠じた大津の辞世である。同じ死ぬ間際の詠誦でも「ももづたふ」の歌が持つ「今日のみ見てや」という“生”に対する感慨が、この絶句にはまったく存在しないといってよい。「泉路賓主無シ」と早くも死への道程に思いを凝らし、「家ヲ離リテ向カフ」ことを明確に認知している。

 そこには死に臨んでの悔恨や悲哀、寂寥、その他ありとあらゆる人間らしい感情が見当らない。“死”そのものを事実としてのみ捕える視点に立っている。「ももづたふ」の歌の詞書には確か「涕を流して作りましし御歌」とあった。が「ももづたふ」の歌も、我が身の宿運を悲しんだり、世を果敢(はかな)んだりする哀泣の声は聴き取れない。すでに大津は、詠う以前に“諦め”覚悟してしまったように思われる。

  天武の死とともに世襲されねばならない王権の座をめぐって、皇后=皇太子がもう一人の皇位継承候補である大津に、なんらかの圧迫を加えてくることは自明の理でもあった。それだけに大津の周囲の者は気を使い、一部で交遊を慎んだ者もいたであろう。皇位継承にまつわる宮廷内は常に懐疑と殺戮に満ち満ちているのだ。そしてその結末は、必ずや近親間の流血をもってあがなわれる。壬申の乱はその大仕掛けなドラマであった。大津は当時、幼少とはいえ、この大内乱を今や忘却の彼方へ押しやってしまった訳ではあるまい。

 天武が病床に臥し死に至るまでの4ヵ月間というもの、宮中は慌しさに追われていた一方、次の皇位について取沙汰されていただろう。そして特に大津の行動を、その一挙手一投足を、皇后=皇太子はもとより諸王、諸臣が注目し始めたであろうことは想像に難くない。むしろそのような宮廷の雰囲気の中で大津は、戦火を潜り抜けて近江大津宮から脱出を図った14年前のことを、まじまじと思い起こしていたに違いない。その時の大友と同じ運命が、今の自分に刻一刻と迫りつつあることを感じない訳にはいかなかった。先にも述べたように大津が単独で誰にも知られず(もちろんこれは後に判明したのだが)伊勢の姉に会いに行ったことも、死の予感が自ずと働いていた所作と見るべきであろう。

 

 極言すれば、天武の死期を迎える段階で、早くも大津は“死”を先取りしたのではあるまいか。書紀が記す通り大津が謀叛を企てたとしても、またそうではなく皇后=皇太子らの策謀であったとしても、いずれは天皇王権を安定化させ、より強固なものとするための犠牲者が要求されてくる。大津はその犠牲者として理想的な立場に置かれていた。これが古代における最高の地位権力の座にある天皇家の歴史の必然である。

 この抗し難い“歴史の必然”に対し、大津は自己の“宿命”を確証した。それは一個人が人間を、また人間の社会を諦めたという、近代人が抱く脆弱な感傷ではない。天皇王権の人民に対する収縛を正統な普遍的思想原理とした白鳳期の世界観が、大津をして一個人に立ち戻らせることなく、その思想原理のまま精神世界が凝結した、とも言うべきか。

 さもなければ「此ノ夕家ヲ離リテ向カフ」という句が持つ高調な響きは、単に漢詩体であるという理由だけで得られるものではない。「鼓声短命ヲ催ス」と自ら短命を自覚して、これをどうしようというのではない。死に臨んでまだ何かを期待し、その期待が破却したというような惜愍(せきびん)の念に耐えない“諦め”は微塵もない。“諦観”ともいうべき道理を見詰めた心が研ぎ澄まされた次元で、この詩は詠われている。

“死”一般に悲しきものといわれる死。だが死は死という事実以上のものでなく、それ以下のものでもない。死という“事実”が、何よりも事実を事実として語ってくれる。大津にとって死は、キラキラと光る太陽のように明るく晴れやかなものであった。一点の曇りない青空に輝く、黄金色の夕陽ばかりが大津の眼孔に映っていた。残暉を単に景色として、あるいは自己の心の象徴として捕えているのではない。眼球という視覚機能が、無限に散らばる光の粒子を捕えて離さなかったのである。そこには生とか死を意識する現世は介在しない。

 日本の青春というべき白鳳時代、その歴史が胎動し始めた天智、天武二代の世を、壬申の乱を挟んで大津は生き、そして死んだ。天皇専制による律令国家の創造という理念を軸に歴史が大きく転換、揺れ動いた時期のことである。思えば大津の生涯も悲劇的であった。とかくわが国歴史の主人公は、悲劇的宿命を負わされている。いや悲運が故に、主人公に仕立て上げられてしまうのかもしれない。がいずれにしても、悲劇を単に主人公の哀傷のみで終わらせてしまうのは、いささか疑問が残る。また悲劇に仮託して悲劇をより悲劇化してしまう傾向は困ったものだ。悲劇であれ喜劇であれ、またいかなる劇であっても、劇そのものの実相を見逃してはなるまい。実相とは真理ではない。だが唯一の事実である。

 その後、大津の亡骸(なきがら)は二上山に葬られた。現在墓標が立つ地点ではなく、山腹に埋められたといわれる。二上山に向って嘆く大伯の声が、木霊(こだま)となって返ってくる。

 

 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬(はぶ)る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首

  うつそみの人にあるわれや

    明日よりは二上山を 弟世とわが見む

 

  磯のうへに生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど

    見すべき君が ありといはなくに

   

当麻曼荼羅図(一部)
当麻曼荼羅図(一部)

  

 当麻寺創建から約80年余り後、藤原南家の豊成の娘、中将姫が16歳にして同寺に籠り、13年間の念仏三昧を続けたあげく、二上山の二つの峯の間に陽が沈む彼岸中日、阿弥陀仏の来迎により極楽往生した、という伝説は有名である。また姫が蓮糸で織ったと伝えられる曼荼羅は、極楽浄土の変相を荘厳なまでに描き出しているという。この中将姫の伝説は「当麻曼荼羅縁起」とともに、古今著聞集にも「横佩(よこはき)大臣女(むすめ)當麻寺曼荼羅を織る事」と題して収録されている。

 この中で、比丘尼となって下生(げしょう)した阿弥陀如来が再び西方の雲中に隠れ入りた後、姫が「恋慕のやすみがたきに堪ず」「禅客去リテ跡無シ、空シク落日ニ向ヒテ涙ヲ流ス、徳音留リテ忘レズ、只恋像ヲ仰ギテ魂ヲ消ス」と、織り上がった曼荼羅を茫然と仰ぎ見ている姿が印象的だ。

 またこの物語を土台に、故折口信夫は独自な考證を駆使して『死者の書』を著わし、近代文学における新機軸を提起、示唆したことを見逃してはなるまい。この書がいう死者とは二上山に眠る大津であり、皇子の魂の黄泉還(よみがえ)りと姫の欣求浄土の想念が見事に交錯し合いながら、物語は壮麗な曼荼羅を織り込んでいく。昭和14年1月~3月『日本評論』に連載され、その後久しく話題に上らなかったこの書も、最近になって、ようやく注目され始めてきた。大津の魂もさることながら、この書も現代に蘇るべくして甦った名作である。

 

 東大門を出でて緩やかな坂道を戻る時、なぜか弥勒仏の顔立ちが、僕の脳裏から消えずに残った。普通の弥勒の姿は京都太秦(うずまさ)広隆寺の半跏思惟の姿だが、当麻の弥勒はすでに成仏してしまったのか、如来形である。梵名でマイトレヤ(茲から生れたもの)と呼び、南インドのバラモンの出身で現在、須弥山(しゅみせん)の最頂上に位置する兜率天(とそつてん)の内院に住し、天人に説法するかたわら自らも修行に励み、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)に次いで成仏する時を待っている。 

 即ち五十六億七千万年後にこの末法の闇の世に下生し、華林園内の竜華樹下で成仏するが、この時、釈迦如来の教えで救われなかった衆生をすべて救済するという。観音、勢至、文殊、普賢、地蔵、虚空蔵と数ある菩薩の中で、もっとも早く成仏するという弥勒仏は、白鳳と呼ばれる時代から今日まで千二百年余りも当麻寺金堂の本尊として、優しい“おほらかな微笑”を浮かべている。 <完>