ノンフィクション・エッセイ 

 

 太陽に魅せられたトライアスリートの物語

 

   

波と光と風のある夏

 

 

ペンネーム 桜井 晋

1991年6月 ㈱大和出版より刊行

 

  

目   次

 

プロローグ 海は歌っている

 

パート1  お祭気分で遊んじゃおう                

トライアスリートは祭バカ

    パジャマ姿の競輪選手            

   妻のはなむけ                      

                   

 パート2  みんなガンバッテ生きている        

     新しき友情                    

     ボランティアは楽し             

    青春、悩むべし                   

      スポーツは万能にあらず            

 

パート3  酒場トライアスロン激情            

      心臓に毛が生えている     

      お酒を飲めば強くなる              

      ムツゴロウ・マラソン大会       

        理想の旗を降ろすことなかれ        

 

パート4 皆生大会へのアプローチ      

    サイクリングは人と人との交差点

                           夏は来ぬ    

                           いざ皆生へ

                   

 

パート5 アスリート修行いく歳月      

       嘲笑渦巻くスイミング・スクール     

            世界の子供を育てろ                 

     エアロビクスが体を変える          

     ランナーへの夢                     

 

パート6  陽気でノーテンキな仲間たち        

                           目覚しが代わりに一潮

                           おかまの春は酒の宴                

    遊び心のなせる技                  

 

パート7  大地の声が聞こえる                

             風に吹かれて大山山麓へ            

            自然を壊す奴は許さない            

            井田は小さな大自然                

 

パート8 中年も大志を抱け                  

         オーママ、アイスウォーター

       市民スポーツに栄えあれ            

             ついに老眼になりぬべし            

       遊んで学ぶは賢者なり              

 

パート9  ゴールすれば神様になれる          

   恋の道は蛇の道                 

     トライアスロンは発展するか        

     皆生の神様ありがとう                 

 

エピローグ 祭囃は遠のいて

  

夜明けの風が そーよろ そーよろと 身に染み渡る
夜明けの風が そーよろ そーよろと 身に染み渡る

 

<プロローグ>  海は歌っている

 

 キラキラと……朝陽がガラスの破片のように散った。その破片は、水面に振りあげた矩形の腕の間からゴーグルの中に飛び込んでくる。周囲には人がいっぱい泳いでいるけど、見えるのはまばゆいばかりの光だけ。せっかくの青空も夏の朝陽に邪魔されて、色を失ったかのように真っ白だ。

 水面に顔をあげて息を吸う。そしてまた水中で息を吐く。その吐く息が細かい泡となってパールグリーンの海中に広がる。ブラックやマゼンタやイエローといった色とりどりのウエットスーツに身を包んだ選手たちのストロークやビートから次々と泡が生まれている。それら無数の泡は、朝の陽光に照らされて金粉のようにきらめくのだった。

 朝凪の穏やかな海だった。水温はちょうどよいが、朝の海はそのたびに肌をひやりと緊張させる。時折、背中に小波のかかるのが分かった。シャブッ、シャブッ、と背中にかかる。海がぼくに語りかけているようだ。深い沈黙に支配された海と人間の無言会話だ。そこにはトライアスロン競技という喧騒はない。

 海はなにを語っているか。そしてぼくは、なにを海に語ろうとしているのか。海はなにも言わないけれど、確実にぼくに語りかけている。何をではない。ぼくが感じるすべてについて海は語ろうとしている。そしてぼくが感じるすべてのことが、すなわち海に対してぼくが語ろうとしていることなのだ。

 

「今日のトライアスロンは暑くなるぞ」

 夜明けの空を見上げながら妻のノリコさんに言った。ホテルの窓から白み始めた空が見える。東の方が少し朝焼けに染まっていた。午前四時半に起きる。それから二時間半後には海の魚となって泳ぎだすのだ。

 朝食をとりながら彼女に今日のレースの流れを話す。あらかじめぼくの三種目のゴールタイムや観戦ポイントを説明する。

「スイムは一時間半、バイクが六時間、ランが五時間半。だから合計一三時間ぐらいかな」

「じゃあゴールは夜の八時ということ」

「まあ、そんなところだ。どのみち八時前に帰ることはないよ」

 ご飯を一杯と奴豆腐半分、半熟の卵を二つ、それにしじみ汁で食事を終える。

 トライアスロン大会の朝は忙しい。食事を終えたら自転車の調整やセッティング、選手登録、ボディへのナンバーリング、トランジッション準備、ウオームアップ、スイムの用意など次々とやらねばならない。そのうちスタート時間も迫ってきて、結局は準備もままならず泳ぎだしてしまうのだ。今朝は昨晩のビールの飲み過ぎか、いささか下痢症状でトイレに四回も入り大分、時間を使ってしまった。体にオリーブ油やワセリンを塗っているうちにスタートの時間がきた。準備体操は海の中で行うよりほかにない。

 

  スタートの前に妻と会いたかった。彼女がぼくの姿を捜しているかもしれないからだ。それとウエットスーツを着けずに泳ぐことにしたので、そのことも伝えたかった。きっと彼女はスイムのゴール地点でウエットスーツのぼくの姿に目を凝らすだろうから……。しかし、砂浜を取り囲む大観衆に紛れて分からない。トライアスリートの仲間たちもどこにいるのか見当たらなかった。すでに海の中に入ってスタートを待っているのだろうか。

「エイ、エイ、オー」

 どこからともなく掛け声がかかった。数十人の男たちがあげた自らを励ます叫びだ。

    鉾をおさめて      日の丸あげて

    胸をドーンと打ちゃ   夜明けの風が

   そーよろ そーよろと  身に染み渡る

   ぼくは口ずさむ。周りに聞こえないように、しかし胸を張って高らかに。

 

 午前七時、消防自動車の非常サイレンにも似た合図で、ぼくらはいっせいに海に飛び込んだ。トライアスロン大会の火蓋が切られたのだ。500人にもの選手たちが群れをなす魚のごとく水を掻き、水を跳ねあげ、水を叩きながら進む。

 多くの選手が一斉にスタートするので、トライアスロンのスイムは決まって選手同士のぶつかり合いで始まる。トライアスロン用語で水中バトル(格闘)という。ぶつかり合い殴り合いつつ自分の位置を主張し、方向を選びながら進んでいくのだ。

 スタートの混乱を抜けマイペースの道が開けてくるのはいつのことか。スイムが遅いぼくは最後の最後まで水中の混乱から抜け出ることはない。ちょうど水に浮かんだどんぐりのように、固まりもみ合いながら流されていく。目の前に平泳ぎの選手が数人いるが、それを抜かすにも抜かす術(すべ)がない。前も後ろも、右も左も、斜め前後もすべて選手たちがひしめき合っているのだ。だから流れに任せていくしかない。それにしてもなんの因果か。こうして一緒に泳いでいる人たちとは、いかなる星の下のめぐり逢わせか。

 スイムのコースにはロープが張られ、一定の間隔ごとにブイが浮かんでいる。そのブイを見て50m泳いだ、やれ100m泳いだと分かるのだが、それでは一体全体どのくらい泳いだのかは分からない。ブイがいくつあったのか勘定する余裕もない。ストロークの度にブイが後方に流れていく。そのことだけで自分の進んでいることが確認できた。

 ときどき顔をもたげて進む方向を確認する。潮の流れや周りで泳ぐ人たちの影響を受けてジグザグに進んでしまうことがあるからだ。前を見なかったためにひどい目にあったことが何度かある。泳ぎながら顔を前方にあげるのも容易でないが、前を見ないであらぬ方向に泳ぐともっと疲れる。

  前方に白いバルーンが目に入った。スイムの折り返し地点に違いない。海の上からというか、船上から風船を揚げているのだ。その白いバルーンを結んだロープは空から垂直に垂れていた。その折り返し点を回ってしばらく経った頃、ようやくマイペースで気持ち好く泳げるようになった。

 ワンストローク×ワンブレス。ひとかきするたびに顔をあげて息を吸う。完全にぼくの泳ぐリズムが整った。そのリズムに乗って、また歌う。

    金の扇の    波 波 波に

   縄のたすきで  故郷の踊り

   男 男の    血は湧きあがる

  小さなうねりが後方に流れていく。風がないせいだろう。角ばった波のしぶきは当らない。ラファエロが描く天女の裸身のようにゆるやかで柔らかいうねりが、いくつもいくつも絶えることなく流れ去る。そのうねりに深々と身を沈めていればいいのだ。やがてたどり着くであろう岸辺は、おのずと向こうからやってくる。

 顔をあげるたびに、朝陽に照らされたホテルの白い壁が見えた。その手前には松も並んでいる。海に向かって軒を並べた民家の窓から人影も伺えた。スタート地点まで戻ってきたようだ。3㎞泳いだことになるだろう。あとわずかだ。でも人の声は聞こえない。耳に達するのは相変わらず水の流れる音、はじける音だけ。しかし、その長い朝の静寂も終わりを告げようとしていた。

 折り返し点と同じくバルーンが浮いている。こんどは赤いバルーンだ。スイムのゴールを知らせているのだろう。顔を前方にあげるたびにバルーンとの距離が縮まっていく。そしてテトラポットの間を右に旋回したところで歓声が聞こえた。選手を待ち受ける家族や友だちが砂浜に群がっている。そこはまぎれもないトライアスロンのスイム・ゴール地点だった。

 何度も何度も顔を前方に向けてゴール地点を確認する。白砂の海底がどんどん浅くなっていく。歓声はますます大きくなって響いた。ようやくゴールゲートの文字が見えたとき、ぼくは海の中で立ち上がりゴーグルを外した。周辺は観客で溢れていたが、もう誰が誰だか分からない。スイム・ゴールの周辺は大きな掛け声と歓声とどよめきが渦巻いている。そして次々とゴールする選手たちの起こした疾風が舞う。

 

  1990年夏。ぼくは美保湾をのぞむ皆生(かいけ)温泉海岸の海と、米子平野を見下ろす大山山麓と、境港に続く弓ヶ浜半島をめぐる旅に出た。

 

お祭気分で遊んじゃおう

 

 トライアスリートは祭バカ

 

   ピーッ、ピーッ、テンツク

   ピーヒャララ、トントン

   ピーヒャラヒャラ、ピッー

   テンツクツク、トントン

 

 遠くから祭囃の音色が聞こえる。おそらくその先の道を左に曲がった明神さまの囃しであろう。薫風に吹かれて音色はいっそう高まった。昨日まで花冷えの寒い日が続いたと思ったら、いつの間か花は散り青葉若葉の季節へと移った。五月も初旬、立夏というぐらいだから今ごろの祭りを夏祭と呼ぶのだろう。

 この二十四季節のひとつ”立夏”はぼくの好きな言葉だ。なぜか若々しい男性の姿をイメージする。青年のはつらつとした美しさを感じるのだ。

「早いなぁ、もう夏になったのか」

 思わずつぶやいてしまう。今年もまたトライアスロンの季節がやってきたのだ。

 

   そりゃぁ、そりゃぁ、せいのぉ、せいのぉ

   そりゃぁ、そりゃぁ、せいのぉ、せいのぉ

 

 こんどは神輿をかつぐ掛け声が響いた。神輿が街を練り歩いて帰ってきたようだ。男たちの勇ましい掛け声がさらに高まる。その掛け声はひとつの声となって周囲を圧倒しているが、耳を澄ますといろいろな声が聞こえてくる。神輿が重いのか、それとも押し合いへし合いで苦しいのか、うなり声もあれば、もう涙声になってしまった声もある。しかし、それらの悲鳴も、

 そりゃぁ、せいのぉ、そりゃぁ、せいのぉ

の主調和音の中に溶け込まれてしまうのだ。

 セッタ、白足袋、わらじの群が次々と通過していく。神輿の先棒(はなぼう)をかつごうと男たちは賢明だ。唾と汗を飛ばして怒鳴る奴がいる。眉を逆立てて拳をあげる奴もいる。かついでいる者をどかそうとしているのだ。

「えぇーい、どけどけどけ」

 我先にと先棒を奪いにいく。先棒をかついでいる奴は、そうとはさせず棒にしがみつく。絶対に渡すものかといった必死の形相である。そして捕られるものかと、

「そりゃあ、そりゃあ」

 さらに声を荒だてる。

 江戸の祭も一時は廃れたが、どこからやってきたのか祭バカが群がって、神輿をかつぎ神輿に酔っている。昔はかつぎ手がいなくて、どこの町会もかつぎ屋さんを雇ったぐらいだが、今は違う。かつぎ手を制限しても、いつの間にかよそ者が進入してきて勝手に神輿をかついでしまうほど盛況だ。

 街の中を行く神輿。交通が遮断されたコンクリートの路上を進んでいく神輿の波と波。男たちは胸をはだけ汗まみれになって歩む。力の押し合い、へし合い、ぶつかり合いのしぶきがあがる。五月の青空の下、神輿野郎の真っ赤なパフォーマンスが騒いでいる。

 思えばトライアスロンも祭と同じようなものだ。たった一日の大会のために半年も一年も前から検討を重ね、準備に多くの時間と労力が費やされる。そして当日は祭り馬鹿ならぬトライアスロン馬鹿がやってきて、そこの町や村は陽が沈むまで騒いでいるのだ。ぼくもその馬鹿のうちのひとりなのである。

 

 五月一七日。皆生トライアスロン大会の主催者から大会参加の案内書類が届いた。「決定通知書」とある文面には「厳粛なる選考の結果、貴殿は出場資格を得ることができましたのでご通知致します」と書かれていた。

 昔、ぼくがトライアスロンというスポーツを知って出てみたいと思った大会がこの皆生大会だった。それから九年の歳月が流れた。そして九年目にして参加が実現した。この間ぼくも歳をとったけれど、皆生大会も年輪を経た。迎えて今年は第一○回記念大会だという。

 時は一九九○年七月二二日。鳥取県米子市の皆生温泉においてスイム三・五㌔、バイク一三五㌔、ラン四二・一九五㌔の距離で行われる。スイムは昨年の三㌔から○・五㌔延び、トータル制限時間も一六時間となった。参加人員は五○○人。参加資格は「一九才以上の健康な男女で、水泳、自転車、マラソン等の競技の経験がありスポーツマンとしてのマナーを身につけ、トライアスロン大会に出場した実績の有る者、またはこれと同等の体力、気力を有すると認められる者」とある。

 ぼくがその資格に相応しい人間かどうか分からない。しかし選手として自ら参加して、日本で最も長い歴史を持つこの大会が刻んだ年輪を見ておきたいと思った。それともうひとつの理由は、皆生大会が一○回目というひとつの節目を迎えたように、日本のトライアスロンも今後どのような方向に進んでいくかという点で節目に差しかかっているような気がしてならなかったからだ。九年という歳月を過ごしてきた皆生大会に象徴される日本のトライアスロンの歴史とそのあり方が、この節目を境に大きく転換していくのではないか。そうも思えた。

 これまでのトライアスロンと、これからのトライアスロン。思えば最近のトライアスロン大会はテレビ映りのいいショートタイプのトライアスロンが増えている。しかもテレビは、とかく大袈裟で過剰な鼓舞宣伝を行い実態とかけ離れたトライアスロン大会を演出しまいがちだ。

「テレビでやっている短い距離のトライアスロンって、見ていてなにか違う気がするの。会場でやっているっていう感じですね。もっと大自然の中で行われて、はじめてトライアスロンというイメージが築かれるんじゃないかしら……」

 いつかタマキさんに聞かれたことがあったけ。恩師カイドウ先生の娘さんでスポーツとはまったく無縁の女性だが、むしろそういうトライアスロンを知らない人たちが鋭い意見を吐く。それというのもトライアスロンを冷静に客観的に見ているからだ。

 一方で皆生大会のようなロングタイプのトライアスロンは交通規制も厳しく年々、開催が難しくなっている。とはいえ丸一日かけて長い距離を征服するところにトライアスロンの醍醐味がある。ショートタイプでは味わえない、大自然をバックにした野生的な息吹を感じ取ることができる。その意味からも実際に選手として皆生大会に参加しようと思った。 

 

パジャマ姿の競輪選手

 

  皆生トライアスロン大会事務局から参加承諾書が届いたその日の夕方、久し振りにジョギングをした。半月振りに走ったのである。距離は六㌔と短いが終始、体が重く感じられた。ともあれ早速、練習を開始したのだ。

 それにしても今日から大会前々日の七月二○日まで六五日しかない。この短期間のうちでトレーニングとコンデショニングを行い、ベストの状態で大会に臨まねばならないとは……。試験を間近に控えてにわか勉強する学生の頃が思いだされた。もう少し前からやっておけばいいものを、いよいよにならなければやらないのだ。試験が終わって反省することしきりだが、反省もその場限りで、また試験日が近づくとにわか勉強を始める始末だ。

  苦しいことが嫌いな人間は、勉強においてもスポーツにおいても同じ轍を踏むのだろうか。ともあれ反省していてもどうにもならない。大会まであと二ヵ月しかないのである。さーて、どうするか。ビールを飲みながら作戦を練ることにした。

 まず六五日間を大雑把に練習日と休養日に振り分けた。その結果、練習日は全体の六○%に相当する四○日と決める。そして休養日というか、練習を行わない日を二○日、予備日を五日とする。また練習日のうちハードな練習をする日は五日、ミドルレベルの練習をする日は一五日、イージーな練習日を二○日と決める。

 ハードな練習とは自分ながらきついと思われるレベルで、ほぼまる一日、体を動かす。だから自転車にも乗って二種目以上のトレーニングを行う。ミドルレベルとは自分にとって適度な運動量で、たとえばマラソンならば二○㌔から三○㌔ぐらい走る。イージーな練習とは軽く汗を流して体調を整えるという感じで、今日の六㌔はそれに適当する。要はトレーニングとコンデショニングのバランス、それにリラクセーションをうまく図れるかどうかにかかっている。

 

 自転車のブレーキレバーを取りつけるため、バイクショップ「ラバネロ」へ行く。ショップのオーナーである高村さんは自転車のフレームを設計、製作し、そのフレームを日本のトップレベルの自転車競技選手に供給しているフレームビルダーでもある。だから自転車の整備、組み付けはすべて信頼すべき彼に頼む。

 取り替えたスモールタイプのレバーを握ってみる。具合がよさそうだ。三台あるロードレーサーのうち皆生トライアスロンでは、レバーを付け替えたこの自転車で走るつもりである。それは皆生のバイクコースがアップダウンの山岳コースなので自重が軽い自転車の方が有利だからだ。この軽い自転車も、かつてサイクル・ロードレース用として高村さんに造ってもらったフルオーダー車だ。

 翌日、ブレーキレバーを取り替えた自転車でトレーニングに出掛ける。朝八時前だが結構暑い。梅雨だというのに好天気が続いていて、太陽の照りつけは厳しかった。それにしても休日以外のウィークデーのサイクリングは気が引けるものだ。近所のお父さんやお母さんは会社へ出掛けたり子供を幼稚園に送りだしたりしている最中だから、余計に目立って「まずいな」と思うのである。朝っぱらからヘルメットかぶってレーサーシューズをはいた出立ちは……、それでなくても、

「サクライさんは競輪選手なのかしら」

「そーお。いつもパジャマ姿で家にいるわよ」

「でもー、競輪選手もジョギングするのかしら」

などと好き放題に噂されているのである。だからジョギングも努めて朝か夕方にしているのだ。お母さん方の井戸端会議のネタにはなりたくない。

 駅前の踏切で待ちぼうけを食わされる。これがまた実につらい。踏切の開くのを待つ人たちが待ちぼうけの間、ぼくの姿や自転車をジロジロ見詰めるのである。しかし通勤時間帯だから遮断機は降りたまま容易に開かない。その間でも電車が仕切りなしに通過する。そのたびに思わず顔を伏せてしまったり、あらぬ方を見て電車の中のお客とは視線が合わないようにした。それでもつい顔をあげた瞬間に、走り行く電車のドアのガラスにへばりついた女性の顔がぼくを見下ろしていたりする。

 

 夕べの酒が顔面に漂っていた。脈拍が六六拍と速い。体重は平常時の体重より二㌔ほど減っている。昨夜は行きつけの酒場ムツゴロウで鱈の粕づけの焼物のとチーズ二枚、トマト一個を食べただけ。昼食も立食いそば一杯だから、さすがにお腹が減った。でも、意識して大食しないようにしている。この春に風邪やら右足捻挫で体調不良の状態が続いたためトレーニングが満足にできず、いささかお腹が膨らんでいたからだ。満足にトレーニングしているわけでないから、「せめてダイエットぐらいしなくては」と思っているのである。

「二ヵ月かけて太ったものは、元になるまで二ヵ月かかるんですよ」

 マラソン大会へ向かう電車の中でアスリートの先輩、神奈川の平井さんの言葉が思い出された。実感がこもった言葉だった。

 ちなみにぼくが好んで食べる物はイカ、湯豆腐、冷そうめん、シラスおろしである。なんのことはない。白いものばかりだ。たとえばイカならば刺身、寿司、照り焼き、煮付け、天ぷら、スルメに至るまでなんでもござれである。ただしイカの揚げもの、フライなど動物性油脂で包んだものは極力避けている。このように、どちらかといえば栄養価の低い食物が好きなせいか、幸いにもブクブク太ってしまうまでには至らない。

 その点「多摩のドン」との異名を持つ東京・多摩地区にあっては文字通り親分格の鈴木さんは、ぼくらトライアスリート仲間では食べることにかけても親分で、食べ物の好き嫌い、旨いまずいは二の次、なによりも沢山食べることに徹した男の中の男である。これから三○分後にフルマラソンを走るというのに、焼き餅を八つも食べて周囲を驚かしたこともあった。

「いやあ、食べたから調子が良かったですよ。食べられるのも芸のうちですね。ヒャヒャヒャ」

などと言うか言わないうちに口をモグモグ動かしている。栄養がどうの、好みがどうのといった通俗を超えたところに、彼のエネルギッシュなアスリート活動の根源があるのだろう。鈴木さんは日夜、アスリートたちの指導、育成に奔走しているが、彼から学んだ若者たちはみんな大食漢になった。ハワイ・アイアンマンをはじめ国内外の大会に出場、好成績をあげる優秀なトライアスリートである彼は、トライアスロンの指導者としても逸材である。

 

 「締切りさえなければいいんだけど……、まったく始末に悪い約束だ」

 ぶつくさ言いながら、夕方まで締め切り迫る原稿とかかずらわっていた。本当は早く切り上げて、今日は二○㌔ほどランニングをしておこうと思ったのだ。皆生大会の参加承諾書が届いてからというもの一○㌔以上走った試しがない。原稿を早く書きあげて三時頃から走りだせば、六時にはビールが飲めるという計算だ。だがランニングに出掛けられるようになったのは五時半になってしまった。

「これじゃあ、二○㌔走ったら帰宅が八時になってしまう。やめだ」

 二○㌔走の予定を変更、一時間半走に切り替える。そうすれば五時半に出発しても七時に帰れるし、それだけ早くビールが飲めるわけだ。この思い切った計画の変更、決してトレーニングを義務化せずフレキシブルに対応していくことが、ぼくら一般アスリートのトレーニングの極意である。また、それをなんら抵抗もなく実行するところが我ながら素晴らしいところだと思っている。別に選手ではないから計画通りやる必要もない。思い通り自分の都合でやればいいのだ。

 翌日サイクリングの途中で、高山さんが開いたトライアスロンの専門ショップ「サブスリー」へ立ち寄った。お店は高山さんが脱サラして一年余り前に開いたものだ。彼はその昔、成人病予備軍の一員として肥満体の生活を送っていたそうだが、健康ジョギングを思い立ちトレーニングを重ねたあげく日本を代表するトライアスリートになった。高山さんの並々ならぬ努力と才能が実を結んだのである。マラソンも速いしトライアスロンも強い。皆生大会にも参加しており、一九八二年の第二回大会では堂々の三位に入賞している。

「これはこれは、珍しい人がきました。今日は練習ですか?」

 ぼくを認めて高山さんは手を休めた。新品の自転車を組み立てている最中だった。

「ええ、こんど皆生大会に出るので、少しづつやっているんですよ」

「あぁー皆生ね。大変だなあ。暑いしね。マラソンがつらいですよ」

「マラソンですか。どうすればいいですか?」

「あの弓ヶ浜のコースは日影がなくてね。それにね、一箇所だけど歩道橋を渡るんですよ」

「本当ですか。歩道橋を、ですか」

 高山さんからいろいろ皆生大会のアドバイスを受けた。経験者の生きた情報が得られ有難かった。

  

妻のはなむけ

 

 それにしても久し振りのトライアスロンである。このところトライアスロン大会には取材や観戦や、あるいは役員やボランティアとして参加するケースが多く、昨年の六月以来、一年ぶりの出場となる。しかも昨年、出場した大会はショートタイプのトライアスロンだったから、ロングのトライアスロンはオーストラリアの大会以来、二年振りである。そんな程度だからぼくをトライアスリートと呼ぶのは相応しくないかもしれない。

 それでもあえてトライアスリートというならば気紛れで弱い(遅い)選手である。いや、そもそも選手という言葉が当てはまらない。もとより素質がない、トレーニングもろくにしない、苦しいことが嫌いである。遊び半分、楽しみながらやっているだけだ。

 しかし、レースというレースでリタイア、ギブアップしたことのないのが自慢といえば自慢だ。大概のレースは制限時間内に完走する。大概というか、今までに自転車のロードレースは三○回ほど出場したが、いずれもタイムアウトにならずに完走できた。マラソン大会はこれまでに五○大会余りに出場したが、レースのレベルにもよるものの大体、真ん中前後でゴールした。トライアスロンもバイクとランの二種目競技であるディアスロンを含め二○大会ほど出場し、すべて完走している。しかし成績は真ん中よりも後ろである。スイム、バイク、ランの三種目のうちどうしてもスイムが遅く、その分が立ち遅れる。

 そんなぼくでも一度、トライアスロンで優勝したことがある。一九八八年に東京の立川市で行われた第二回国営昭和記念公園大会において四一歳以上Age(年齢別)の部で優勝することができた。前年の第一回大会も参加したが、このときは四○歳だったので表彰対象とならなかったが、ひとつ歳をとって記録も前回を上回った。昨年と同じ初心者レベルの大会なので、あるいは、

「入賞ぐらい、できるかもしれない」

と内心、思っていた。でもそれを狙ったり期待していたわけでない。なぜならば二回目の大会の方がレベルアップしているのが通例だから。

 それがまぐれにも優勝してしまったのだから我ながら驚いた。名前を呼ばれたとき、「いや、ぼくではない。ぼくより速い人がいるでしょ」

と言ったら、

「その人は四○歳です。Ageは四一歳からだから、あなたが優勝です」

と役員の方が言う。トライアスロンで初めて、表彰の壇上にあがらされた。

 でも格別、嬉しくもない。むしろ恥ずかしいぐらいだ。所詮は偶然に過ぎない。勝つために練習したわけでもないし、入賞しようと頑張ったわけでもない。勝っても負けても同じである。そんなぼくを「つまらない、感動の少ない人間だ」と思われるかもしれない。しかしぼくにとってスポーツとは勝ったり負けたりするものでもなく、ただひたすら自分なりに精一杯、無心になって行うものであるからだ。それが楽しい。

 「ご機嫌いかがですか?この封書を雲の上で開いておられることと思います。……カンガルーやコアラやエリマキトカゲと競争して無事、完走されることを日本の空から祈っております。……それではお元気でいってらっしゃぁーい」

 

 一九八八年の五月、オーストラリア・ゴールドコーストで行われる第一回ワールドカップ・トライアスロン大会に出場するときのことだった。成田を飛び立ちシドニーへ向かう飛行機の中で一通の封書を開けた。「飛行機の中で開けるように」と妻のノリコさんが書き置いていったものである。手紙はそんな内容を記した便箋と一緒に一万円札が数枚、入っていた。

「なんとか完走しなくてはいけないな」

 若干のプレッシャーを感じないわけにはいかなかった。ワールドカップは世界の一流選手たちが集まってくる大会だけに競技制限タイムが厳しい。実際、大会当日のスイム部門で参加した日本人の約半数がタイムオーバーとなって失格したほどである。スイム三㌔、バイク一三○㌔、ラン三○㌔というレース距離と制限タイムを勘案すると、「ギリギリでフィニッシュできそう」といった状況だった。

 それにしてもノリコさんの餞別は助かるというべきか、これでトライアスロン以外、少しは海外旅行も楽めた。お陰でゴールドコーストやシドニーの酒場をあちこち徘徊することができた。でもそのうちの一枚は遊びの殿堂”カジノ”に預けっぱなしである。

 とにかくトライアスロンはお金がかかるスポーツである。大会に出場するには参加費はもちろん交通費や宿泊費、そのほか競技用品類などを用意しなければならない。このワールドカップ大会は外国だからなおさらである。参加費二万円のほか旅行費用二五万円、そのほか保険料や成田までの交通費や自転車の郵送料など入れると三○万円をオーバーしてしまう。それに現地での飲食費やお土産代を入れると、しめて四○万円。これら金銭の負担は容易でない。その点、今回参加する皆生大会は二泊三日の宿泊費とエントリー費合わせ三万五、○○○円と大変安い。日本の三大大会といわれる宮古島大会や琵琶湖大会と比べれば安く参加できる大会なのである。

 また、トライアスロンはお金もかかるけど時間もかかる。大会に参加するにしても三日から一週間ほどの時間を要する。練習時間も必要だから、トータルで考えればトライアスロンにかける時間は膨大なものとなる。だからトライアスロンをやる者は家族の良き理解を得なければならない。特に妻に対し十二分の気配りをしなければならないのだ。

 

  別に気配りのつもりではなかった。ノリコさんを皆生大会に連れていこうと考えていた。彼女はこれまで身近なところで行われたトライアスロン大会は観戦しているが、いずれも距離が短いショートタイプの大会ばかりである。ロングのトライアスロン大会は観ていない。ぼくが半日かけて走り続けるレースを見せてあげたいと思った。

「一緒に行かないか」

 夕食の支度をしている彼女にそれとなく言ってみた。すると、

「そんな、お金もないのに……。お父さん一人で行ってきなさいよ」

と一蹴された。

 しかしこんどの皆生大会には、なぜか「女房にトライアスロンを観せてあげたい」という気持ちが強く、その思いが捨て切れなかった。だから医師の診断書をはじめ必要書類はみな揃えたのだが、まだ主催者には送らなかった。彼女を連れて行くとなれば、宿泊人員を変更し宿泊費を二人分振り込む必要があったからだ。

 それから一週間ほど経った。お昼に鯖寿司を食べながら、また言った。

「行かないか」

「どうしてそんなに誘うの。お金もかかるし、それに時間もかかるでしょ」

 ノリコさんはいぶかった。そこでぼくは思い切って言った。

「これが最後になるかもしれない、からだ」

「最後って……。もうトライアスロンはやらないの」

「選手として参加するのはな。宮古島にも行ったし、ゴールドコーストにも行った。あと特に行きたいところはないよ」

「まだハワイが残っているじゃない」

「あれは琵琶湖大会の予選を通過しないと出られないよ」

「じゃあ、琵琶湖に出たら」

「出てもレベルが高くて、ハワイ行きの切符はそう簡単に手に入らないさ」

「切符って?」

「出場資格だよ。ハワイは速さを競う大会になってしまったんだ」

 そんな話しで昼食を終えた。

 ぼくが「トライアスロンへの参加は最後になるかもしれない」と言ったことに、彼女は気を留めていた。皆生大会で溺れて、「もう帰ってこないのではないか」とか、これでぼくは「トライアスロンとは縁を切ってしまうのではないか」とか、あれこれ思いめぐらしたようだ。

「そんな馬鹿な。溺れちゃったら、この本の原稿が書けないじゃないか」

といって笑ったら、彼女も少しは安心したようだった。

 それからまた一週間余りが過ぎた。ノリコさんは子供たちと相談した結果、「行ってもよい」との承諾を得た。「子供たちが夏休みに入ったばかりで家を留守にできない」と躊躇していたが、ようやく心を決めたようだ。エントリー締切日の三日前だった。

 

 

みんなガンバッテ生きている

 

新しき友情

 

 外はまだ暗い。ノリコさんが寝ぼけ眼で玄関まで見送りにきた。

「お父さんにはホントに感心するわ。誰も来ないというのに、ちゃーんと行くんだから」 

「しょうがないだろう。約束をした以上、行かなくちゃ……」

 二人の吐く真っ白な息が暗闇で舞った。

「だから偉いっていうの」

 ぼくは苦笑した。朝っぱらから女房に誉められてもなんにもなりゃしない。リーダーとして誰が来ようが来まいが、指定した時間と場所には行かなくてはならない。

 今日はジェイシーの練習会で、富士五湖のひとつ、山中湖まで往復一八○㌔の道志川渓谷を行くサイクリングである。冬の朝は六時を過ぎないと明るくならないし、それに寒いけれど、早く出掛けないと道も混む。ジェイシーのメンバーとは朝六時半に待ち合わせることになっていた。しかし、この日は誰も来なかった。みんな寒くて布団にくるまっているのだ。

 「ジェイシー」というクラブ名は、英語の”JC”である。すなわち”ジョイ・サークル”の略称で、「喜びの輪」といった意味だ。広義な意味でのアスリート集団で、ランニングもスイミングもサイクリングも、そしてトライアスロンもハイキングもウォーキングーもキャンピングもみんな楽しみ遊んじゃおうという仲良しクラブなのだ。そしてスポーツを健康で明るい生活を送るためのトータルフィットネスとしてとらえ、「ゆっくり遊びながら学びながら楽しもう」という趣旨で活動している。

 実はそのクラブの創始者であり代表者がぼくである。もう創ってから七年ほどになるが、当初、会員はぼく一人だった。でも一人では格好がつかないのでノリコさんを勧誘した。

「私を会員にしても、私は走りませんよ」

 そっけない返事が帰ってきた。それでも名前だけの会員になってくれた。そのノリコさんが、いつの日かジョギングを始めるようになると、

「ヒロコさんやナオコさんのご主人は一緒に走ってくれるというのに……、なぜお父さんは一緒に走ってくれないの」

などとほざくのである。そのヒロコさんとナオコさんのご主人である村上さん、熊谷さんは、夫婦でジェイシーのメンバーとなっている。

「二人とも優しい旦那だからね。見てみろ。クマさんの目なんか細くて見えないくらいじゃないか」

「目が細いのと、優しいのと、どういう関係があるんですか」

 なおもノリコさんは追及してくる。察するところ、彼女は独りで走るのが恥ずかしいようである。ジェイシーへ最初に入会したアキエさんはジョギング大好き人間で、マラソン大会にもよく出場するベテランだが、その彼女でさえ毎朝のトレーニング時は、

「人に会うのが恥ずかしい」

と言ってサンバイザーを深くかぶり下を向いて走っているそうだ。その気持ちがぼくにも分からないわけではない。それと独りよりもみんなで走る方がはずみがつく。

 しかし、ぼくも次のような理由で一緒に走りたくなかったのだ。それはノリコさんとはまったく逆な意味で二人で走るのが気恥ずかしいこと、また走るリズムが損なわれるからだった。やはりランニングは独りで走るに限る。走りながらあれこれ思いをめぐらし、

「あの原稿はどんなタッチで書こうか。今日の取材はどのように進めようか。例の問題についてはどのように解決すればいいか。しばらく会っていないが彼は元気だろうか。今晩の酒はどこで飲もうか」

などなど考えるのである。どうせ走りだしたら考えは長続きしないのだが、それでもいろいろ思いめぐらせて頭の中を整理しておくのである。それなりに精神集中を図ろうとしてしているのだ。なのに走りながら女房に、

「ねぇ、お父さん。今月は苦しいからお酒、我慢してね」

などと言われたら、たまったものではない。

 そこで日頃、彼女が尊敬してやまないジョギングの先生として有名な山西哲郎さんの言葉を紹介した。いつかインタビュー取材の後、酒を飲みながら彼が語った言葉である。すなわち、山西さん曰く。

「女房と走るぐらいなら、オレはジョギングをやめる」

 もちろん、ぼくが同調したのは言うまでもない。それからというもの、ノリコさんはぼくと走ることを諦めた。

 

 「新しい時代が到来しつつあるように思えます。それは従来までの家庭や職場、あるいは地域社会のつながりとはまったく別な領域での、より融和的で優しい人間関係の形成と発展です。この世界の中で私たちは学び、かつ体験し、知識と教養と健康と人格を養っていこうとしています。当サークルがそのような場としての役割を担っていければ大変、素晴らしいことだと思っています」

 一九八八年一○月のジェイシー会報の一部である。毎月送る会報は練習会のスケジュールや連絡事項がほとんどだが、季節の変わり目や会員メンバーの移動があったときなどに若干のコメントを記す。こんなことも書く。

 「レースに出場するということは、競争して勝ったり自己記録を更新するなど、とかく好成績をあげることが目的と考えがちですが、決してそればかりではありません。まずなによりも自分なりの目標を掲げつつ自らを励まし努力してみること、レース中に自分の体力や体調を確かめながら次なる飛躍への足掛りを見つけることです。そして私たちはレースそのものを楽しんでしまう気持ちが大切なのです」

 日頃ぼくは、クラブ活動にイデア(理念)が必要だと思っている。それはトライアスロン・クラブに限らず、市民のスポーツ・クラブ全部にいえることだ。単に集まって練習をやって強くなるというだけでなく、集まって楽しくて強くなって、そのうえにもうひとつ必要なのがイデアなのである。でも、そういうことを考えているクラブ・リーダーは残念ながら非常に少ない。ぼくもあれこれ考え摸索している最中である。

 

 来春、大学を卒業して化粧品会社への就職が決まったばかりのアキコさんがジェイシーに入会した。高校生時代の陸上競技選手の経験を活かしてトライアスロンに挑戦したいという。

「まあー、ゆっくり遊びながら、楽しくやろうね」

 誰彼となくクラブに入ってくる人に、ぼくはそう言う。特に意味を込めて言うわけではない。なんとなく、そう言うだけだ。その意味がなんとなく理解できる人はクラブにずっと在籍している。「もっと速くなりたい」とか、「トライアスロン大会で好成績をあげたい」とか、やたら目的意識が強い人は長続きしない。そういう人はとかく自分のことしか見れない人間だから、みんなと一緒に活動していくことが難しいのだ。

 そのアキコさんの注文した自転車が出来あがって、

「今日やっと自分の元に自転車がきました。ピカピカでとても愛着が湧きます。早速乗ってみたいのですが外は雨。がっかりです。でも明日はサイクリングに行こうと思います」

 手紙の文面から「ピカピカ」が見えるようだった。初めて自転車を手にした彼女の喜びがひしひしと伝わってくる。誰もが同じ喜びに浸る瞬間である。

 こうして最近は若い女性がトライアスロンの門を叩いてくる。ジェイシーの入会に当たってアケミさんは、

「半年考えたあげく、思い切って電話したんです」

と言う。半年も考えたとは驚きだが、でもその決心の割に自転車は「怖い」と言って乗らない。そもそもヘルメットをかぶったりバイクジャージを着るなど、自転車に乗る格好をすることが「恥ずかしい」そうだ。もっともな気がしないでもなかった。

 これに対してすっかり自転車の虜になってしまったのがフミエさんだ。自転車に魅せられてトライアスロンよりも自転車のロードレースばかりに出ている。上りはイマイチだが、下り坂になると男顔負けでビュンビュン飛ばす。そんな彼女も自転車に乗り始めた頃は大騒ぎだった。おっかなびっくりサドルにまたがりながら、

「ウワーこわい。キャアァー助けて~」

「もっと肩を落して。そう、肘も曲げて」

「もうダメェー、キャアー」

「もっと曲げるッ」

 ガッシャンー。

 彼女は自転車もろとも横転した。それでも笑顔は絶やさない。路上に寝転びながら自分でも可笑しくて笑っていた。

 フミエさんと好対象なのがミユキさん。笑うことはないが喋りだしたら止まらない。しかも、すべて質問の矢が飛んでくるのだ。大学院で法律の勉強をしているせいなのか、常に「なぜ?なぜですか?]と聞いてくる。

「どのようにトレーニングしたらいいですか。その場合どうするのですか。その理由はなんですか。根拠があるんですか。どうしてですか」

「それはキミ、えぇーと、そのぉー、トレーニングすれば速くなるよ、絶対に。しなければ速くならないよ。だからやってみなさい」

 ぼくは即座に答えたつもりだが、なかなか彼女は納得しない。そのミユキさんは来年から新聞記者になるという。適職である。

 口数も少なく、笑い声の低いのがナオミさんである。ジェイシーの五○㌔マラソン練習にもついてくる根性の持ち主だ。彼女の名字がぼくと同じなので、なぜか他人のようには思えない。また本人の父親の年齢もぼくと近いので、彼女はぼくのことを「お父さん」と呼んでいる。ぼくは慌てて、

「そんなこと言っちゃだめ!お兄さんと呼べ」

と否定するのであった。

 もうひとり、漢字が違うがアケミさんがいる。ジェイシーのメンバーとしては古株になってしまったが、まだ二○歳代前半の夢多き女性である。

「フィアンセとホノルル・マラソンに出てみたいの」

などと言っていたが、最近はバレンタインの日に義理チョを届けてくれるだけで、一向にトレーニングする気配はない。アケミさん!運動しないでチョコレートばかり食べてると肥えちゃうよ。

 

ボランティアは楽し

 

 「そんな人の面倒や大会の役員をやっていて、皆生大会は完走できるのですか」 心配してくれるのか、はたまた脅かされているのか分からないが、トライアスリートの仲間からそんな言葉をかけられる。

「そうなのだ。もっと自分の練習をしないとまずい。今のままじゃ、完走もおぼつかないぞ」

などと不安もよぎる。お世辞を連発してすぐ人を持ち上げてしまうことからその名がつくフォークリフトのシゲ(自称・船橋の青木)さんでさえ、

「サクライさん、もう少し練習した方がいいんじゃない。皆生は暑いし、コースもきついですからねぇ」

 だからぼくも口だけは負けずに、

「ハハッ、なんとか完走しますよ。遅くてもね」

「そうですかぁー。大丈夫ですか。サクライさんあってのトライアスロンですからねえ。どうか頑張ってくださいよ」

 もうこうなると誉められてるのか馬鹿にされているのか分からない。ほとんど後者の方である。でもぼくは”完走”はできるのじゃないかと思っている。それを実証する根拠や自信はないが、

「まあ、これまでの積み重ねもあるし、なんとかなるんじゃないか」

という勝手な思い込みがあった。

 それにしても、シゲさんだって人のことは言えないのだ。かつては皆生大会もハワイのアイアンマン大会も制した鉄人だったが、ここ数年というも自ら選手としてトライアスロン大会に出場したことがない。というか大会役員やボランティアの役回りばかりに追われ、選手としての意欲を持続させる暇がないのである。アスリートとしてやっていることといえば毎朝のジョギングていどで、あとはトライアスリートたちの世話ばかりに明け暮れている。しかしシゲさんのような人が、トライアスロンの普及と発展の大きな原動力となっているのだ。

 

 そのシゲさんとはサイパンのトライアスロン大会へオフィシャルとして行った。

 このトライアスロン大会は太平洋ミクロネシアの島サイパンで毎年五月に開催されている。この頃、日本は緑薫る初夏だが、現地は摂氏三五度の真夏である。参加費と旅費を加えても全部で一○万円余と国内大会より費用が割安なので、日本から多くの人たちが空路を経て参加する人気の大会となっている。珊瑚礁の海を泳ぎ、真紅の花をつけた桜並木を自転車で飛ばし、ビーチロードを駆け抜けるトロピカル・トライアスロンだ。

 シゲさんはこの大会でコース設定、役員の配置、用具類の管理などオフィシャルとしては最も重要なセクションを担当する。たとえばコース設定ではバイクとランの距離測定、トランジッション・エリアの配置、順路表示の看板の設置などを夜中まで行う。短い滞在日数と少ない役員数という条件下で一人二役あるいは三役の働きをするのである。

 一方、ぼくはバイク部門の統括責任者として競技運営や審判の仕事が与えられている。コースのレイアウトやマーシャル(審判員)の指導、選手に対してはバイクのメカニカル・チェックやコース説明など、大会が安全無事に行われるための競技役員として駆りだされる。

 オフィシャルは睡眠もままならないほど夜は遅くまで、朝は早くから活動する。一九八九年の大会は五日間、現地に逗留したが、そのときの一日の平均睡眠時間は三時間余という超ハードスケジュールだった。役員それにボランティアはトライアスロン大会を裏で支えているのだが、その仕事は実に重労働なのである。このあたりの事情を知らない人は、よくこんなことを言う。

「ついでに観戦できて楽しいでしょう」

 確かにトライアスロンとたずさわっているのだから楽しいが、レース観戦という点での楽しさはない。役員はそれぞれ受け持たされた作業に専念しているので、誰がトップでゴールしたのか、レースはどのように推移したかは大会が終わるまで知ることができない。トップ選手がフィニッシュしても最終走者がゴールするまで任務に当たっているからである。一生懸命走っている選手たちの監視と指導、サポートにおおわらわなのだ。

 

 そのサイパン大会でジェイシーの若手のホープ、大島君がヤングの部で優勝した。スイムでは三番目にゴールし、バイクでは数人に抜かれたものの苦手のランでは外人選手の後に懸命について総合でも七位を確保したのだった。

 彼はジェイシーではもっとも若い二○歳の学生である。入会したときは一八歳の可愛いい大学一年生だったから、そのときから比べれば大分、大人らしくなったけど、まだ体が十分に発達していない。特に上半身の筋肉の発達が遅れているので、すぐには強くならないと見ていた。

 しかし本人は、早く強くなってトップ選手たちと競争したいという希望を持ち続けている。ぼくと二人で湘南海岸の茅ヶ崎でトレーニング合宿をした時、夕飯を食べながら大島君は言った。

「どうすれば強くなれますかねえ」

「そんなにすぐには強くなれないよ。世界のマークアレンだって三○歳を過ぎているんだ。つまりその歳までアスリートとして鍛えてきているんだから……。キミがその歳までトライアスロンを続けられれば強くもなるさ」

「だってあと十年もあるじゃないですか」

「そうだね。大変なことだよ。まあ、そこまで続けられればすごいね」

 同じことをぼくは日本のトップ選手たちにも言う。

「世界を狙うなら三○歳まで頑張れ。すぐに強くなろうと思うな。長い時間をかけて、そして三○歳になったら世界のトップになれ」

と。アイアンマン大会でベストテン入りを果たし世界の強豪に名を連ねた宮塚英也選手にそう言ったら、

「ワッハハ、まかせてくださいよ。オレもそのつもりです。三○歳までたっぷり修行して、そして世界を狙いますよ」

 頼もしい返事が返ってきた。彼の強さは、執拗なまでに物事にこだわっていく集中力にある。それと孤独に耐えて自分の意志を貫き通す精神的パワーが優れて高い。きっとぼくらの期待を実らせてくれるに違いない。

 トライアスロンという持久的な運動は、こうして時間をかけて体力づくりを進めることが大切だ。そしてちょうど三○歳前後が一番強くなる時期でもある。内蔵の諸器官がもっとも発達し、機能も十二分に働き、運動に必要な神経や筋肉が成熟するときなのだ。個人差があるものの、およそ三○歳前後はスピードとスタミナがうまくバランスされる頃ではないかと思っている。

 その点からしても大島君は若い。まだこれから伸びていく余地がいっぱいあるのだ。しかも彼は子供の頃から気管支炎が弱く、それで水泳を始めたというのだが、二十歳になった今でも時折、咳き込むことがあるという。そのために薬を三種類も飲んでいるというが、その薬が筋肉を萎縮させてしまう副作用のあることが最近になって分かった。だから彼が本当に強くなってトライアスロンのトップレベルの選手になるには、その弱点を克服してからになるだろう。彼は来年一年間、アメリカに留学するという。「もちろんアメリカでトライアスロンの修行もしてきます」 

 そう言ってぼくに、おかわりのご飯をよそってくれた。

 

 同じサイパンの大会でマサコさんも四○歳代の部で優勝した。息子さんを伴なってのトライアスロン参戦だった。彼女にとって本格的なトライアスロン大会は今回が初めてということもあり、それも外国の大会ということで不安もあったのだろう、それで息子さんを連れてきたのだった。そして、あの熱いサイパンの空の下で三種目を制覇しAge優勝を果たした。

 大会が終わり日本へ戻った一週間後にマサコさんから手紙が届いた。手紙はあらまし次のような内容だった。

「成田を出てから成田に帰るまでお陰さまで事故もなく、ほんとうに楽しい旅でした。旅のあいだ中、子育てを終えた思いが胸をよぎり感慨無量でした。いろいろありがとうございました」

 ごく普通の礼状ではあったが、文面には子供を育んできた母親の熱い気持ちが伝わってきた。そしてマサコさんは、

「私の歳では、お金を払っても遊ばせてもらえるのは有難いんです」

と言いながら、その後もトライアスロンを大いに楽しんでいる。

 

青春、悩むべし

 

 「新しい時代がやってこようとしています。それは希望であり、また試練でもあります。私たちはその試練に立ち向かい、希望の時代を切り開いていかねばなりません。……」

 一九九一年一月、ジェイシー会報の年頭挨拶文である。特に二○歳代の若者たちに贈った言葉だ。

 ジェイシーの会員は四○名余りだが、このうち二○歳代は男女合わせて半分以上を占める。ラーメン屋さんを店じまいしてこんどは英語の検定試験にチャレンジする頑張り屋の岸さん、消防救急隊のつわもの石黒さん、新婚ほやほや~練習そっちのけの小渕さん、とにかく遊ぶことが大好きで海、山、野原の道具をいつもクルマに積んで動き回るマルチ遊人の井下君、スキーをはじめ山登りやサッカーなどスポーツならなんでもこなす河田君、消防士という不規則な勤務条件にもかかわらず日々ランニングに励む高橋君、ニュージーランド・アイアンマンレースに挑む永田君、マーシャルアーツからトライアスロンに転向した松本君、将来のアイアンマンを夢見て着実にトレーニングを積み重ねる練習の虫・瀧口君、トライアスロンよりも水球が楽しいという大島君など、若者たちはみなスポーツや勉学に精をだし自らを鍛えようと真剣だ。

 真面目に、着実に、自分なりに歩む方向に向かって進んでいる。気持ちも明るく優しく、正直な若者ばかりである。ぼくはこのような素晴らしい若者たちと一緒にスポーツを楽しむことができるのだから幸せである。しかも彼らはぼくを同じ若者として友だちのように受け入れてくれる。

 

 「いやぁ、はやい。ほんとにみんな速くなったね。とてもついていけないよ」

 ようやく峠の頂上について、ぼくは自転車を路上に倒したままへたるように腰を降ろした。息が弾んで話すことが全部、声にならない。すでに若者たちは先に上がっていて談笑していた。

 今日はジェイシーの若者たちと峠道を走るサイクリングにきたが、彼らのスピードについていくことはできそうもない。初めはあれこれ手ほどきしてあげたのに、今では非情にもぼくを置いてどんどん先に行ってしまう。坂の上りになると、あっという間に離されてしまう。結局ぼくは一人旅をするしかないのだ。

「よいしょ、よいしょ」

とばかり声を出して自分を励まし、少しでも若者たちから離れまいと思いながら走る。とはいっても所詮ぼくはマイペース。焦らず急がず、自分の思いのまま走る。先に行った若者たちは必ず待っていてくれる。なにも慌てることはない。マイペースこそサイクリングの境地でもある。しかし、マネージャー役の金子さんはこう言ってぼくを諭す。

「それはサイクリングの境地でなくて、諦めの境地でしょ」

 それでみんな大笑いになった。でもやっぱり言葉に出てしまう。

「いいなあー、キミたちは。ぼくの歳になるまで二○年近くトライアスロンができるんだから」

「ハッハ、でも、あと二○年もやったら体がボロボロになってしまいますよ。なあ」

 若者たちはお互いに頷き合った。

 それにしても羨ましいかぎりである。ぼくの青年時代はといえば、ロードレーサーは容易に手に入らなかったし、市民マラソン大会もろくにない。もちろんトライアスロンは生まれてなかったし、一緒に練習する仲間もいなかった。二○前の日本では、学校を卒業し社会人となったらスポーツを続けていく環境条件が皆無に等しい。続けられる人は実業団と称する企業に所属しながらオリンピックを目指すエリートがほとんどだった。市民がマラソンをしたり自転車のロードレースを楽しむ機会はまったくといってなかったのである。

          

 大学を出て社会人になったばかりの松本君が夜遅く訪ねてきた。サイクリングは一日三○○㌔走るというなかなかのつわもので、トライアスロンに憧れジェイシーに入会してきた。しかし、彼のウイークポイントはスイムである。それで今夜はプールで泳いできたという。

「どうだい、スイムの方は?」

「まだまだですけど、頑張ってます」

「そうか。まあ、慌てないでやることだね。それで仕事の方は?」

「えぇ、こっちもまずまずですが、なかなか休みがとれなくて。休むとうるさいんですよ。だいたい自転車で通勤しているだけで、なんだかんだ言われますからね」

「なんて言われるの?松本さん、きっとこうでしょう。新入社員の癖に生意気なヤツだとかなんとか……」

 隣で妻が言った。

「ええ、その通りですよ。だけど、こればっかりは譲らないんです。自転車で通うことは……、上司の誰が言おうと」

「そうよね。頑張らなくちゃ。でも会社の女性は、松本さんの自転車の姿を見て格好いい、とかなんとか言うんじゃない」

「ハッハハ、そんなこと言いませんよ。松本さんは電車が嫌いなのかって聞かれますよ」

  やはり彼も異端児と見られているのだろうか。ぼくが知る多くのトライアスロンの友人たちは職場で変わり者扱い、場合によっては気違い扱いされている。まさかトライアスリートだけではないだろうが、どうもスポーツマンは日本社会において白眼視されがちだ。すなわち、スポーツは遊びである。遊びは社会実利に背く。だから夢中になってやることではない。やる奴は馬鹿だ。そんな方程式がいつの間にかぼくらの周りにはびこっているような気がしないでもない。

「それにしてもサクライさん。世の中、一流大学を出て一流企業に就職して、それで一体なんだったのかって考えますよ」

 松本君はがっかりした面持ちで言った。きっとそれが言いたくて今晩訪ねてきたのだろう。社会人一年生が思い知る理想と現実のギャップである。ぼくは酒の勢いで喋りだした。

「松本君、今や年功序列型の終身雇用制は崩壊しつつあるんだよ。教育の現場はまだそのことに気付いていないというか、まったく旧来の路線から一歩も脱皮していないけれどね。相変わらずの一流志向だな。そもそも人生は誰のためにあるのか。ぼくらは、なにも文部省が定めた優等生づくりの教育カリキュラムに拘束されたり、拡大再生産によって人を切れ捨てていく今の産業社会の犠牲になることはないんだよ。一度しかない人生を有意義に生きていくために、自分を取り巻く家族や多くの友人たちと仲良く楽しく暮らしていくために、多様な価値観を持った世界の人々との連帯と人間としての感動を得るために生きていくんだ。特に二一世紀の国際社会に生きていくキミたち若者は、そうした日本古来の旧秩序のワクの中で安住していてはいけない。世界に大きく目を見張りながら、自分自身の中で精神革命を起こすんだ。だからキミたちは心身を鍛え、勉強を積み重ねていくことだよ」

 果たして松本君の問いに答えたかどうか分からない。それからも夜が更けゆくまで、彼とビールを飲みながら語り合った。

 

スポーツは万能にあらず

 

 「ジョギングを教えてくれませんか」

  年の瀬に木枯しが吹きすさぶある日、ユリさんが電話をかけてきた。彼女とはムツゴロウという酒場でときたま顔を会わせお互い顔は知ってはいたが、いつも彼女は酔っ払っているのであまり口をきいたことがない。ぼくは女の酔っ払いは苦手である。電話がかかってきたとき一瞬、

「面倒な人がきたな」

と思ったほどだ。しかし、むべに断わるわけにもいかず、

「まあ、それならやってごらん。いつも公園で走っているから、よかったら来なさい」 その公園はぼくにとっては近いが、彼女の住んでいるアパートからは一時間以上もかかるので、「おそらく来ることもないだろう」と高をくくっていた。それがどうだろう。翌日、公園に行ったら先に来ていて、ちゃーんと野球グラウンドの中を走っているではないか!それもランニング用のウインドブレーカーなんか着ちゃって……。

「いやぁ、よく来たね。それにウエアもシューズも揃っているじゃないの。前にも走っていたのかい」

「いえ、初めてです。実家がスポーツ用具店なの」

 ムツゴロウで酔っ払っている女性とはまるで別人だった。昼間の太陽がまぶしいという風情で額に手をかざし、はにかみながらぼくの質問に答えていた。

「えーと、それで年齢は」

「ひみつ」

「あのねぇ、ここは酒場じゃないんだよ。純粋なスポーツをやる現場なんだから、ほんとのことを言ってくれないかなぁ」

「はーい、すみません。では思い切って、二六歳です」

「そうかな?。三○歳に近いんじゃないの。あなたの友達のランコさんが言ってたよ」「まあ失礼ね。そんなにオバンじゃないわよ」

「じゃあ、ほんとはいくつ」

「二七」

「独身だね」

「はい」

「生理の状態は?」

「エエッ!そんなことまで言うんですか」

「もちろん。スポーツの世界は曖昧であってはならない。なにしろ身体の問題だからね」「でも……」

「それじゃあ、体調は」

「まあまあ、です」

「持病は?」

「あるけど言えません」

「なぜ」

「だって、言いたくないの」

「言わないと教えないよ。病気なのにジョギングしたら大変なことになるし。誰にも言わないから、言ってごらん」

「じゃあ秘密ね。ヘヘッ……ア・ル・チュ・ウ」

 彼女は一音一音、低い声で言った。それで思わず二人とも大笑いした。

 その日からユリさんのジョギングが始まった。そして毎週のようにやって来た。ジェイシーの他のメンバーが誰もこない日でも彼女は来た。一緒に走りながら、

「オヤッ、髪の毛切ったんだね」

「ええ、この方が走るにも楽でしょう」

 ユリさんははにかみながら両手で頬を覆った。

「それで、アルチューやってるの?」

「少しだけ」

「そう。でも、あまり飲まない方がいいよ」

「フフフ……。サクラさんこそ、あまり人に言えた義理ではないでしょ」

 ぼくはやり返された。しかし、本当に彼女は酒を飲まなくなったようだ。ムツゴロウではほとんど顔を会わすことがなくなった。ジョギングして元気になろうという決心のようなものが感じられた。会うたびに彼女は明るくなっていった。

「サクラさんと会うと気が休まるの」

 ニコニコ笑みを浮かべながら、ジョギングが楽しくなったことをぼくに告げた。寒さの冬が終わり、やうやく春がやって来た。

 ある日、ユリさんから電話で呼びだされた。「相談にのってくれないか」ということだった。夕暮れが迫る大衆酒場で会った。

「どうしたんだい。お金の相談以外ならなんでもいいよ」

 冗談混じりに話し始めると、いきなりユリさんが、

「あの人から毎晩、電話がかかってくるの」

 そう言って、しばらく黙ってしまった。どうやら恋愛問題のようだが、「あの人」とは一体誰か?彼女は着物の卸問屋に勤めているが、職場の男性のことだろうか。よくよく聞きだしたら、ぼくも町のクラシック喫茶でよくで顔を会わす男のことだった。しかし口をきいたことはない。鼻筋が高く顎髭を蓄えた男前だが、やや禿上がった額のあたりに不気味さを漂わせていた。

「それでユリさん、あなたは彼が好きなのかい」

「ううーん、そうじゃない」」

「じゃあ、相手にしなければいいじゃないか」

「そうなんだけど……、私のアパートまで来るの」

「そーう。あの男、よくあなたの家を知っているね。それとも以前に彼と付き合っていたの?」

「…………」

 ユリさんはまた黙ってしまった。ジョギングしているとき、あんなに快活なユリさんが、一転して顔を曇らせた。おそらく彼女は男から復縁を迫られているに違いないが、ぼくは言及を避けた。彼女さえ気持ちをしっかり固めて対処すれば解決できると思った。

「ハッハ、元気をだしな、ユリさん。とにかく気持ちを前向きに持つことだよ。くよくよしてても仕方ないから、きちんと彼と話しすればいい。さあ、今週もまたジョギングしよう。思い切り汗をかいて、つまらないことは忘れることだ」

 ぼくは慰めた。どのように対処すべきかも話した。そしてスポーツの素晴らしさについて語った。しばらく喋りっぱなしだった。そしてフッと顔をあげてみたら、彼女は空を見詰め口許から飲んだビールを垂らしていた。

 その後ユリさんはジョギングのたびに、男との話し合いの進展状況を報告してくれた。どうにか解決への糸口がついたかのようだった。しかし、桜吹雪が舞う日の午後、ユリさんはアパートの一室で首を吊った。信州の家族宛てに書いた一通の遺書を残して。

 発見されたのは死亡推定日から二日経ってからだった。また死ぬ二日前に勤務先の会社へ辞表を提出していたそうだが、その後本人とは音信不通となり、不審に思った会社側が彼女のアパートを訪ね自殺現場を発見したのだ。警察では自殺と断定し、死体解剖せずに火葬したという。ムツゴロウ酒場で彼女の死を聞いたぼくは後日、警察と会社を訪ね自殺の一部始終を知ったが、それでも何故ユリさんが死を選んだのか、その理由は少しも分からなかった。会社の上司も盛んに首をかしげていた。

「思い当たるフシがありませんからなぁ。同じフロアーの女子社員に聞いたんですけど、みんな分からないって言うんですよ。昨年の秋頃に結婚話しがあったようですけどね……」

 ぼくは死ぬ四日前に彼女と会っている。「元気がないな」とは思ったが、男問題は解決方向にあることだし、まさか死ぬとは考えてもみなかった。でも彼女の死を目の当たりにして、いかに自分が無力だったかを感じないわけにはいかなかった。そしてこのとき、「スポーツは万能ではない」ということを思い知った。

 

 それ以来、ぼくはジョギングやトライアスロンを必要以上に押しつけたり、やらせたりはしないように意識している。スポーツは素晴らしいが、すべての人たちにとって素晴らしい訳ではないのだ。だから最近、練習会に出て来ないジェイシーのメンバーにも、ぼくの方からあえて誘うことはしない。

 ダイビングで陽に焼けて顔も体も真っ黒、おまけにスポーツウエアも自転車のカラーも黒一色なので、子供たちから「ミクロネシアのお姉さん」と呼ばれているユウコさんもそのうちのひとり。彼女はよく沖縄やグアムへ旅行に行ってお土産を持ってきてくれる。そのたびに、

「仕事が忙しいーんです。それに今、お相撲やっていて目が離せないの」

と言う。最近はマラソン大会にもエントリーしないし、トライアスロンも一度参加、完走しただけで止めてしまった。仕事のほか婚期にあってスポーツを楽しんではいられない訳があるかもしれない。みんなそれぞれ、さまざまに事情があるのだ。

 男性の方では中堅の広井さんも、

「仕事が毎晩遅くて……」

と嘆いている。うっかりすると日曜日も会社へ出勤というから大変だ。せっかくの休みも仕事の疲れが残っていたりして、なかなか体を動かす気になれないのだろう。だからスポーツがやれる、体を動かし快い汗をかくことができることは有難いことなのだ。やりたくてもできない人が沢山いるのである。それは仕事の都合であったり家庭の事情であったりするが、むしろ体調など物理的条件よりも精神的な生活事情によるところが大きいのではなかろうか。

  サイパンのトライアスロン大会で友だちになったスポーツジムのトレーナーでありインストラクターのケイコさんも広井さんと同じだ。思うように休暇がとれなくて、せっかくエントリーが決まった琵琶湖トライアスロン大会の参加許可も返上したという。職場の上司が労務管理上の理由で休ませてくれないのだ。

「がっかりです。やっぱりトライアスロンってまだ理解されていないって感じがしました」

 電話の向こうですっかりしおれている。また中間管理職という立場上、事務作業ばかりやらされてトレーニングの現場に出れないのが不満のようだ。「こうしてトライアスロンでも仕事でも、いろいろな場面で決断を迫られていながら、なかなか決断が出せない自分が情けない」と言う。

「でも人それぞれにペースというものがあるでしょう。だから私も好い意味で暢気を決め込んだんです」

「それがいいね。まあ、慌てないでゆっくりやればいいですよ」

 ぼくも抽象的にしか慰められない。社会のトライアスロンに対する理解が遅れているからだろうか。いや、そうではないだろう。おそらくトライアスロンに対するぼくらの熱意があまりにも強すぎるが故に、社会はトライアスロンを理解してくれているものと勝手に思い込んでいる節があるのではないか。

 とかくぼくらは、トライアスリートであることを鼻にかける意識過剰な側面があるように思える。他のスポーツマンとは違うある一種の臭味を漂わせている。変形した自惚れ意識が垣間見える。おそらく社会は、そんなトライアスリートたちを特別な目で見ているムキがあるかもしれない。残念ながら現状では、たとえ鉄人の称号を受けても社会から尊敬されるスポーツ・マスターの称号が与えられことはないだろう。

 

 その点、ジェイシーのエツコさんは自分がトライアスリートであることに特別の思い入れは持っていない。むしろ自分がトライアスリートであることを恥ずかしがっているようにさえ思える。気張らず、トライアスロンはやれるときにやれればいいという感じだ。そんな彼女の物事にとらわれない感覚を、ぼくは大切だと思っている。

 それにしても彼女はいつもどこか調子が悪い。このところお腹の具合いが良くないそうだ。

「ほら、ここのところが痛いんです」

と言ってみずおちの辺りを指で押している。医者に診てもらったら胃や腸が下にさがる病気だという。

「へぇ、そんな病気があるの。それじゃあランニングは止めて水泳だけにしたら。水泳ならば体は横になるので大丈夫」

などと、ぼくもすっかり真面目な気持ちになったいた。しかし、なんのことはない。あとになって胃潰瘍だということが分かった。でも、それが分かるまで一年近くもかかった。それまで本人もぼくも”内臓が落ちる病気”だど本気に心配していたのだ。

 そのエツコさんから相談があった。

「仕事を辞めようと思うんです」

 彼女は芸能プロダクションに勤めている。だからよく音楽祭の招待券くれたり、人気タレントのワンマンショーにも妻とともに招待してくれる。いつかは、

「ぼくは荻野目洋子の歌が好きなんですよ。笑わないでください」

と言ったら、間もなくして彼女の本物のサイン入り色紙を持ってきてくれたのには驚いた。

 その芸能界とは、まさに人間感情がもつれ錯綜する世界なのだろうか。エツコさんは仕事を続けていく気持ちを失ったという。それと時間的に不規則な生活を強いられることもつらいのだ。

「でも、あなたの才能を活かすには、今の仕事がいいんじゃない。あまり自分を突き詰めない方がいいよ。運動して、いい汗かいて、気持ちをフッ切ることだよ」

 どうもぼくが言うことはいつも同じになってしまう。しかし、それからしばらくして彼女から手紙が届いた。

「とにかく元気がなにより。これで乗り切ってみようと決めました」

といった内容の文面だった。頑張れ、エツコさん! 

 

酒場トライアスロン激情

 

心臓に毛が生えている

 

 皆生トライアスロン大会への参加手続きのひとつとして負荷心電図の検査結果を主催者側に提出しなければならない。運動したときの心臓の状態を心電図で見るのである。三年前の宮古島大会に参加した時に診察していただいた吉祥寺の「北町診療所」へ行く。この診療所はなによりも料金が安い。普通だと負荷心電図の検査は一万円ほどかかるのだが、破格の料金で診てもらえるのが有難い。また、診療所の医師や看護婦さんたちがトライアスロンをよく理解してくださっている。

 それというのも、この診療所の事務長をされている森トーマスさんはトライアスリートの草分けの一人で、その関係からなにかとトライアスリートに対し便宜を図ってくれるのだ。日本だけだが、トライアスロン参加に負荷心電図検査による診断書の添付が義務付けられている現在、ぼくらトライアスリートにとって北町診療所は有難い存在だ。

 それにしてもトライアスロン大会参加に伴なう診断書の提出義務だが、どの大会も最近でこそ参加が決定した後に提出すればいいようになったが、まだいくつかの大会は相変わらず事前の提出を求めている。すなわち「診断書の提出が参加したいかどうかの判断基準になる」などが理由である。なかには血液検査までさせといて、それでいて平気で「参加不承認」の烙印を押すのである。もちろん診断費用は本人が負担したままである。まことにお役所的発想で、馬鹿げているとしか言いようがない。それが日本のトライアスロン界の常識として広がっている。本場のアメリカやオーストラリアでは考えられないことである。

 このため北町診療所の噂はトライアスリートたちの間に広まって、外人をも含め毎年一○○人余りの人が訪ねてくるという。あまり多いので森さんが一八八七年からデータを採ったところ、その年が一○七名、翌八八年が一二三名、八九年が一○一名だった。その森さんは言う。

「トライアスリートのほとんどの人たちがスポーツ心臓の方ばかりでね。だから、うっかり他の病院なんかいくと心臓肥大や貧脈症などの病名がついちゃうんですよ。たまたまぼくもトライアスロンをやっているから、スポーツ心臓の状態がよく理解できるのだけど……。それにしても負荷心電図検査が一万円もかかるなんてひどいね。この診療所は地域医療を目的に設立されてますから、その点で患者さんに大きな負担をかけないようにいろいろ工夫しているんです」

 みんな森さんのお陰である。

 

  さて北町診療所での検査は、まず受付表に記入して検査の目的を申し述べる。次に血圧を図る。ぼくは上が一三○、下が九○だった。まずまず普通の値だろう。次に尿を採る。出始めは尿のエキスが濃く不純物も多かろうと思って(そんなことがあるかどうかはまったく知らない)しばらく放出した後に紙コップに入れた。尿検査で失格したら惨めである。さて、その次はいよいよ心電図の検査。上半身裸になって、まずは平常脈を採る。その後、心電図計のコンピュータから出る発信音に合わせて三段階の階段を上り下りする。往復三重回ほどやったろうか。運動を終えて再びベットに寝て、心電図を採った。採り終わって、

「不整脈が出てますか」

 係りの看護婦さんに聞いたら、

「このコンピュータは出てますって……いってますよ」

 少し含み笑いをしながら、看護婦さんは検査室から出ていった。

「やっぱり不整脈は直らないものなのか」

 服を着ながら思う。トライアスロンに限らないが、マラソンなど持久的な運動をしている者の宿命なのかもしれない。心臓が肥大化して鼓動する心臓音は大きく、しかも不整脈を伴う。こういう心臓のことを通称”スポーツ心臓”と呼んでいる。

 いよいよ医師の診断が下ろうとしている。医師の稲月先生と向かい合わせに座るやいなや、開口一番、

「いやぁ、あなたの心臓には毛が生えてますよ。そうとぉーに運動をしていますねッ」ときた。「そうとぉーに」という言葉が、いやに力が入っている。

「いいえセンセイ。ぼくは本当に楽しみ程度で、ろくに練習もしていないし、そんなにハードなトレーニングはやっていません」

 慌てて否定した。すると稲月先生は笑って、

「ハッハッハ、心臓は積み重ねの結果が出るんですよ。若い人の心臓には毛は生えない。普通だったら精密検査が必要だな。まあ、あなたたちのような人を新人類というんだよ。または鉄人ともいうらしいがね。ワッハハハ。ともかくよろしい。合格!」 帰りの電車の中でぼくは腕を組んで考え込んだ。

「心臓に毛が生えてしまってはオジンだな。あまりやるなということか。外はまだ明るいけれど……今日は練習を休もう」

 心の中でつぶやいてムツゴロウ酒場の暖簾をくぐった。昼食を抜いていたのでお腹も減っていたが、なによりもビールが飲みたかった。

 

 

お酒を飲めば強くなる

 

   人生は止まらない汽車

   過ぎた日は二度と帰らない

      人生は止まらない汽車

   見えない明日へ走り抜ける

 

  暖簾をくぐろうとすると、店の中からギターの音が聞こえた。カンタロウさんが弾き語りでフォークを唄っている。

「おや、珍しいね。カンさんがフォークを歌うなんて。やくざ渡世の渡り鳥はどうしたの」

 すると、女将のノギクさんが代わりに答えた。

「今日は当たって機嫌が好いのよ。ほら、オートバイ」

 カンタロウさんはぼくと同じ歳回りだが、すでに頭は剥げてしまって、つんつるてんである。そのつんつるてんで山あり谷ありのボコボコした頭が、今日はなぜか笑っているようだった。そして唄い終わると、ぼくに向かって、

「サクラさん、今日はおごりだよ。なんでも飲みなよ。ヘヘヘ」

 そういうとまたギターを弾き始めた。どうやらカンタロウさん、オートレースで大儲けをしたらしい。このところドサ回りの芝居も暇なのか、毎晩彼はいの一番でやってくる

「さあ、サクラさん。遠慮なくやっていいわよ」

 すかさず女将がビールの栓を勢いよく抜いた。

 

 ぼくの行きつけの酒場「ムツゴロウ」は、加藤登紀子の歌ではないが、時代遅れのちょっと疲れた男たち、女たちがやってくる。客という客が風来坊ばかりで、一人として正業についているものはいない。また背広とネクタイなどしている者はいないからサラリーマンは入りにくいし、第一入ってきても、この店の常連客の毒気に当てられて早々に退散してしまう。とても一般のお客が晩酌代わりに飲んだり食べたりする店ではない。ぼくは昔、貧乏詩人の友だちに連れて来られ、以来、常連客の一人になってしまった。ぼくのようなその日暮らしのライター稼業には、この店が肌に合うのかもしれない。

 くすぶった天井から今どき珍しい裸電球が垂れ下がり、円形のカウンターにようやく八人ほどが座れる狭い店である。したがって、この八人の席はすべて常連客によって占められる。客同士、知らない者はいない。だからみんな言いたい放題、生活や社会に対する不満をぶちまける。ひがみ、ねたみ、うらみの三節で、ウスノロ総理大臣やボロモウケ企業なんか、ことあるごとにこき下ろしてしまうのだ。でも悪意はない。あれこれ言って酒の肴に楽しんでいるだけだ。酔っ払った勢いで馬鹿騒ぎをする底抜けに明るい連中なのである。トライアスリートもネアカ人間が多いが、ムツゴロウの面々にはとても敵わないのではなかろうか。

 

 ムツゴロウのカウンターが満員になるのは八時前後。その頃には常連の面々も大分酔いが回って元気がいい。

「明日はお天気だから、みなさん野球でもやりませんか」

 カウンターを見回しながら野球好きのウスゲタが提案した。薄ペラの下駄を引っかけて新宿でサンドイッチマンをやっているので、その名がついている。背丈が一八○㌢と高いのでそうしているのか、真新しい下駄はナイフで削ってしまって、

「これがぼくの美学なんです」

などと得意になっている。歳は二八と若いのに一向に定職につこうとしない。

「そりゃいいね。やろう、やろう」

 すぐにパチプロのヤマアラシが同調した。パチンコで飯を食っている典型的な風来坊で、たまに名古屋まで出張するという。すると自称”女優”のランコさんが、

「あんた、昼間は仕事じゃないの。それともパチンコ廃業したの?」

「バカ言え。やめたらおまんま食えなかろ。明日は昼メシまでに勝負さ」

「ヘェー、そんなにうまくいくのか。それじゃあ、おいヤマアラシ。たまにはタバコぐらい持ってこいよ。いつも金と引き換えればいいってもんじゃねえぜ。タバコの一○○箱や二○○箱、オレたちに振る舞っても罰にゃあならねぇぜ」

 年輩のギンさんが、いつもながらヤマアラシのケチケチ振りをなじった。ギンさんはスナックのマスターで夜が商売タイムなのだが、よほど気が向かないとやらない。もっぱら奥さんに店をまかせて毎晩、巷で飲み歩いている。若い頃は浅草で鳴らした遊び人だが、今は五○も半ばを過ぎ白髪が目立つ中年おやじになってしまった。それでも口の方は若手も顔負け、人の言うことに何かとケチ、いちゃもんをつけてバッサバッサ切るのが得意である。

 結局、明日の野球は賛同者が少なく、ウスゲタとヤマアラシ、それに今夜中に連絡がついた暇人らとキャッチボール大会をすることで決着した。どうせキャッチボールは夕方頃に始めて少しやったら終わり。すぐにムツゴロウにやってくる算段だろう。酒を飲むために運動しようというわけである。

 

「ところでサクラさん、こんどはどの大会に出るの」

 女将が熱燗をつけてくれた。

「皆生トライアスロン」

「カイケ?」

「うん、鳥取県の米子市で行われている大会でね。日本では一番古い大会なんだよ」

 といっても、ノギクさんも店の客たちも皆生大会のことはまったく知らない。

「でもサクラさんはこうして毎晩、お酒飲んで、よくトライアスロンができるのね」 大分、酒が回ってきたランコさんが横目でぼくを見る。かく言う彼女の切出し方は注意しなくてはならない。とにかく一日一回は人をやり込めないと気が済まない連中だから、用心にこしたことはないのだ。

「ハハハ、飲むといったって、みなさんほどじゃあないですよ」

「そうかしら。でもトライアスロンって、水泳と自転車とマラソンの三種目でしょ。よく練習する時間があるわね」

「実はね、酒を飲むと心臓が、ほら速くなるでしょう。ドキドキってっね。それで知らないうちに心臓や血管を鍛えているんですよ」

「ホホッ、面白い。それじゃあ一発、私もやりましょうか。そのトライアスロンというの。どう、サクラさん。挑戦していいかしら」

「どうぞ、やりましょう。望むところです」

と言ったまではよかったが、

「それじゃあ、こんなトライアスロンはどうかしら。まずビールを飲むの。その次は日本酒。そしてウイスキーでゴールってのは」

「そりゃあいい。ランコは女ぷりもいいけど、言うこともいいねぇ。そんならオレにもチャンスがあるよ。よおーしサクラさん、勝負しよう」

 ヤマアラシも勢いづいた。

「ハッハ、そんなトライアスロンはダメダメ。運動になってないでしょ」

「おやサクラさん、おかしいぜ。今、言ったじゃない。酒を飲んで練習してるって。エッ違うの。そりゃあ矛盾するぜ。鉄人の名が泣くってもんだ」

 ギンさんが追い撃ちをかける。どうやら今晩はぼくが血祭にあげられるらしい。しかし、ぼくも頑張った。

「でも、そのトライアスロンでは、おのずと勝敗が決まってますよ」

 すると、やおらカンタロウさんがギターを弾く手を休めた。

「だって、普通のトライアスロンじゃ、サクラさんが勝つの決まってるじゃん。だから、こうしよう。まずビールを飲んでから水溜まりで泳いで、上がってきたら日本酒を飲む。自転車は氷の上を走って、戻ってきたらウイスキーを飲む。最後のマラソンはドロンコの田んぼの中を走ってワインでフィニッシュってのは」

「ウヒャー、それは面白い。よおーし、やろうやろう。さあ、みなさん、やりましょう」

 ウスゲタは立ち上がって喜んだ。名前の通り四角張った長い顔の中で細い眉と目が垂れ下がった。ヤマアラシも口笛を鳴らして騒ぎ立てた。実はこうしてウスゲタとヤマアラシが喜び勇むのも、かつて二人ともぼくに苦い思いをさせられたからである。

 

ムツゴロウ・マラソン大会

 

 ウスゲタもヤマアラシも、ぼくがマラソンやサイクリングをやっているとは夢にも知らなかった頃のことである。ウスゲタは高校生時代にバスケットの選手だったことを自慢にしていたし、ヤマアラシも中学生のときは水泳で学校ナンバーワンだったと豪語していた。しかし、ぼくはいささか興に乗って、彼らをからかったのがいけなかった。

「ひとつ、お二人のスポーツマン振りを拝見したいなあ。どうです、マラソンでもやりませんか。ぼくも最近ジョギングを始めたばかりだから」

「いいとも。歳上のサクラさんには負けられないぜ。なあ、ウスゲタ」

「そうですよ。サクラさんとコンパスが違いますよ。ヤマさん、ここはひとつ受けて立ちましょうよ」

 というわけで、酒の勢いから突如としてマラソン大会が挙行されることになったのである。時は春。桜花爛漫の金曜日、場所は皇居一周五㌔㍍と決まった。早速、広告の裏紙にマジック文字で記した「ムツゴロウ・マラソン大会」の案内が店の壁に貼られた。これでムツゴロウの客たちが「酒の肴ができた」と喜んだのはいうまでもない。参加者は次々と現われ、ついに女性を含め二○余人に達した。このうちマラソン経験者はウスゲタほか数人である。あとはズブの素人。おのずとぼくの勝利は見えていた。

  大会の日は絶好の花見日和。皇居の桜が青空に映えた。スタート時間は当然のことながら午後三時。朝っぱらからやるわけがない。終われば花より団子をやろうという寸法である。とにかく酒飲みたちのマラソン大会である。選手の中には禁断症状の奴もいる。何が起こるか分からない。

 竹橋の小さな公園のベンチにムツゴロウの客および関係者、総勢三○名、うち選手一八名が集まった。審判長は女将のノギクさんである。大会が宣言された後、彼女の合図で熱戦の火蓋が切られた。

 選手たちは先を争うがごとく横一線で走りだした。しかしただひとり、Gパンはいたギンさんだけが反対方向に走っていく。早くもトラブル?しかし、誰もそれをとがめようとしない。ギンさんを諭すことは彼の奥さんでも無理なことを、ぼくらは知っていたからだ。

 さて、正当なコースを走るぼくらは五○○㍍ぐらい走ったが、まだ集団である。ぼくは一番後ろを走る。みんなの様子を見ながら飛びだしていく者がいたらついていって、途中から千切ろうという作戦である。竹橋をスタートして、半蔵門までの緩い上りを様子を伺いながら走る。どうやら先頭集団が形成されたようだ。この日ばかりは下駄でなくバスケットシューズのウスゲタがトップ。続いてねじり鉢巻きのヤマアラシ。三番手が皮ジャン姿のカンタロウさんほか三人ほどの集団となった。すかさずぼくは三番手から先頭の二人を伺う。

 半蔵門を通過して下りに入ると、さすがにみんな息が弾んできた。ぼくはまだ余裕しゃくしゃく。ジョギングに毛が生えた程度の走りである。下りながらウスゲタとヤマアラシの間に入った。少し揺さぶって、完全に息の根をあげさせてしまう作戦だ。先頭に出たり、またちょっと下がったりして徐々にスピードをあげていく。二人ともぼくに負けまいと必死になった。

「ハッハッ、フーヒャー、ハァー」

 ウスゲタはただならぬ呼吸というか、悲鳴のごとき声をあげ始める。ヤマアラシも顎がすっかりあがってしまい、普段つり上がり気味の目が逆に下がってしまった。目から力が失せるという気配である。どうやら二人とも一杯になったようだ。坂を下り終えて桜田門をくぐる。反対側からギンさんが見えたところでスパートした。

 ぼくがフィニッシュして三分後にウスゲタが息も絶え絶えにゴールイン、そのまま路上に倒れ伏した。ヤマアラシはついに歩いて、レオタード姿のランコさんと後方グループでゴール。なんのことはない。反対方向を走ったギンさんよりも遅かったのである。ぼくの優勝タイムはちょうど二○分だった。

 千鳥が淵の桜の花の下で宴会が始まった。やはり酒飲みたちにはランニングよりも宴会がよく似合う。ヤマアラシは反省ひとしきり、

「昨夜の酒がまだ残っていてゼツ不調、まいったね」

「スポーツマンは弁解しちゃあ駄目だよ」 

と、誰からか声がかかると、

「よし、わかった。サクラさん。こんどは水泳で勝負しよう。トライアスロンと同じ四㌔でやろう」

 と持ちかけてきた。いよいよヤマアラシの十八番が出たのだ。水泳こそはヤマアラシの方が速いだろう。でも彼は満足に練習もしない、ぶっつけ本番でやるはずだ。だから普段トレーニングしているぼくには勝てやしない。年齢的にも素質も実力もヤマアラシの方が優れているが、椅子に座ってパチンコばかりでは満足に泳げるわけがない。これも勝負は見えていたが、なんとか誉めそやかして戦いは避けた。アスリートでもない彼らに勝つことの空しさを、これ以上味わいたくなかったからである。

 

理想の旗を降ろすことなかれ

 

 この数日、ベルリンの壁の崩壊、東西両ドイツの統合といった世界の緊張緩和の兆について話すことが頻繁になった。ランコさんは、

「これは歓迎すべきことなんじゃない」

と言ってギンさんに答えを促す。でもギンさんは、すぐには答えない。ちゃーんと文句、批評が言える場面まで待っているのである。とにかくマラソンもみんなと反対方向で走らないと気が済まない御仁である。当たり前の事を言うのが嫌いな性格なのだ。その点ウスゲタやヤマアラシは図に乗って、すぐあれこれ喋る。

「ペレストロイカの炎は見事に燃え上がりましたね。いやあ、お見事、お見事。ソ連共産党が七○年を越す一党独裁を終わらせる。かたやドイツ統合への人民エネルギーの爆発。それはとりもなおさず米ソ冷戦構造の消滅を意味しているんですね。九二年のECの経済統合といい、今や世界のトレンドはユニフィーへと動いています。素晴らしいことです」

 ウスゲタに喋らしていては出番がないといわんばかりにヤマアラシも、

「コラッ、ウスゲタ。やたら英語なんか喋るんじゃない。なんだ、そのユニフィーってやつは」

「統合って意味です。分かりますか。と・う・ご・う」

「フーン、もっともらしいこと言うが、なぁウスゲタ。どのみち共産主義ってのはな、そうなる運命だったのよ。酒も満足に飲めないし、パチンコをやりたくてもできない国じゃあ、どうしようもないぜ。ねえサクラさん。東ドイツなんて、あそこのオリンピック選手たちは子供の頃からしごかれて、おまけに勝つために薬を飲まされてるっていうじゃない」

「そのようだね。彼らはオリンピックで勝つことが国威発揚だと考えていたからね。それにしても今日のドイツ統合を予測し得た人が、一体何人いただろうか」

 まさに世界の政治家、社会学者、そしてジャーナリストが予測だにしなかったことが起きたのである。しかし、ヤマアラシは胸を張った。

「オレは予想していたね。だって国が食糧や品物を管理しているから、いくら働いて旨いものを食べようとしたって、それができないだろ。だから、いずれは革命が起きるってね。だって、まるで動物園のサル同然じゃないか。あとはよろしく飼い慣らされて、アメリカザルに勝てば人間並みに家つき、クルマつきの生活をさせてやろうというんだろう。ひでえ話しだよ」

「ヤマちゃんは、ソ連じゃパチンコができないからそう言うんでしょ」

 女将がからかった。

「まあね。それもあるけど、こうしてムツゴロウで飲んで言いたいこと言って、自由主義は有難いよ。金儲けしようとするればできるし、ウスゲタのように働きたくないヤツにはちゃーんと金は入らないようになっているし。資本主義経済はよくできてるよ」

「ベラボウめ、資本主義のどこがいい。地価は上がるし、空気は汚れる。おまけにオレたちゃあウサギ小屋に閉じ込められて、それでも資本主義がいいのかよ。えぇ、ヤマアラシ。せっせと会社に勤めて、命すり減らして、勤続何十年のメダルなんかもらってその気になって、定年退職してみればたったの家一軒。親父の苦労も知らないで息子はガソリン吹かして女遊び。冗談じゃねえぜ。なにが先進経済国だ。たかだか企業に金が集まっているだけじゃねえか。だから日本の金を目当てに世界中のヤツらが烏の目鷹の目、みーんな狙って飛んでくるぜ。なんていったけ、サクラさん。あのオリンピック屋のジジイは」

 ギンさんのドングリ眼がつり上がった。

「ハッハハ、IOCのサマランチ会長ですか」

「そうそう、そのオコサマランチよ。金、金、金の亡者だろ。オリンピックは金だ。プロでもなんでもござれ。金を出す国に開催権をやろうじゃないか。委員の席もやる、といった調子じゃねえか。資本主義のなれの果てよ」

「平和の祭典というよりも、オリンピック興業になってますね。それでいいのかどうか、一度、原点に戻って考える必要がありますね」

 ぼくも同感だった。今のオリンピックのあり方、その方向性に疑問を抱かないわけにはいかない。しかし、サマランチ会長が提唱するコマーシャリズム路線を批判する者はスポーツ・ジャーナリズム界にあっても少ない。

 ランコさんが話しを戻した。

「共産主義が幻想だったということかしら。要するに、みんなが仲よくなれればいいのよね。それだけ軍事費も安く済んで、その分のお金が芸術に回ってくるわ」

「ヘヘッ、ポルノが芸術とでもいうのですか。ランコさま」

 ヤマアラシがせせら笑う。

「なによ。あんたなんか雑音だらけの機械を相手にケチな商売してさ。笑わさないでよ」

「まあまあお二人りとも、芸術論議は秋になったらやりましょうよ。今はユニフィーの夏ですよ」

 ウスゲタはコップをかざした。東西ドイツの併合に祝杯をあげようというのだろう。元気のないカンタロウさんがボソボソ喋りだした。

「まあ感慨深いよな。オレたち学生の頃から反動だ、とかなんとか言って棒振り回してさ。ある意味じゃあ社会主義を尊敬していたんだけど、結局、経済的に行き詰まったんだよな。共産的計画経済の敗北といってしまえばそれまでだけど、残念な気もするじゃん」

「なあに、カンちゃん。共産主義も資本主義も同じ穴のムジナよ。所詮はヨーロッパ近代合理主義が生み落した双子なんだ。オレたちが選択している自由市場経済だって、そのうち矛盾を抱えきれなくなってぶっつぶれるかもしれねぇ。歴史において誰が勝った、負けたなんてことはねぇんだよ。今はオレたち、負け犬だけどよ……」

 なぜかギンさんの白髪が光って見えた。

 ギンさんの言うように共産主義の試みが失敗したとはいえ、だからといって資本主義の正統が証明されたわけではない。むしろ資本主義が標榜している市場経済の論理が社会を産業化、機械化、組織化の方向へと強引に引きずりながら、その結果として人間性の喪失と文化理念の低俗化をもたらしているではないか。資本ストック拡大のため、いたずらに自然を乱開発し地球環境を汚染し続けているいるではないか。

 ぼくらは、ややもすると現実路線を踏襲さえしていけば良しとしている向きがある。しかし人間の意識変革は理想を求める心の中にこそあるのではないか。いたずらに理想主義に溺れる必要はないが、理想を追い求めていく運動は絶やしてはならない。社会主義体制は崩れたが社会主義の精神が失われたわけではない。

 オリンピックも本来のアマチュアリズムの精神を失うことなく、人類の平和と連帯を希求していくべきではないか。オリンピックよ!理想の旗を降ろすことなかれ。

 

皆生大会へのアプローチ

 

サイクリングは人と人との交差点

 

 ぼくは音楽が好きだ。しかし鍵盤を叩いたり弦を鳴らしたり管を吹いたりはしない。昔、手慰みに作った尺八を吹いてみたりするが、ただ音を出して喜んでいるばかりである。酔っ払った勢いで歌ったりもするが、覚えている歌詞を一小節、口ずさむだけだ。スポーツはやるものと心得ているが、音楽はもっぱら聴くのみである。

「新しい曲を習ったから聴いてよ」

 夕べは娘のアイがピアノを弾いてくれるという。

「聴いてあげるけど、もっと流れるがごとき美しい曲を弾いてくれないか」

と注文する。娘はいつもバッハの練習曲ばかりを弾いている。モーツアルトでもシューベルトでも、あるいはショパンでもリストでもいい。もっと作品らしい曲を聴きたい。練習曲を聴いていても酒の味が落ちるというものだ。しかし、夕べはそうではなかった。流れるがごとき、とまではいかないが、シューベルトの曲を聴かせてくれた。「この一杯のオンザロックでおつもり」と思っていたが、ついついピアノの音色でグラスがすすんだ。そして家庭演奏会が終わった頃には、ついにぼくは酔いの闇に落ち込んでいたのだった。

「明日はバイク練習を沢山しなければならない。皆生トライアスロンへ向けて厳しいトレーニングをする日だ」

 昨日からそう心に決めていた。しかし朝、目覚めてみると、どことなく酒の匂いがする。夕べ飲んだバーボン・ウイスキーの香りだ。それはぼくの鼻先から匂った。

 

 梅雨に入った六月の半ばだが、お天気は上々。風も北風が吹いてさわやかな初夏の日曜日となった。こんな好天気はめったにない。お空はピーカン、真青な青一色。

「シマッタ!飲み過ぎた」

 後悔しながら出掛けの用意をする。ようやく一○時頃になってサドルの上にまたがった。

  入間市を通過して三五㌔ほど走った頃にようやく酒気も抜け始める。深い緑に覆われてた森や畑を見ながら走っていく。サイクリストにも、ぽつぽつ出会う。山の裾野の鎌北湖ではロードレーサーに乗った若者の姿が目立ったが、その中で偶然にもトライアスリートの先輩である海老沢さんに遭った。葉が生い茂る湖畔の桜の木の下で休んでいた。

「やあ、こんにちわ。こんなところで会えるなんて」

「いやあ、ほんとに偶然。で、サクライさんはどちらに」

「これから山に上がって、刈場坂(かばさか)から正丸(しょうまる)峠を抜けていこうかと……」

「それはすごい。じゃあ、途中まで一緒に走りましょう」

 それから二人で山道を上り始めた。海老沢さんは軽いギアでペダルをクルクル回わす。

「オジンのギアですよ」

 口を開けて大きな息をしながら坂道をぐんぐん上っていく。五○歳になったというのに実に若々しい走り方だ。マラソンが得意の人で、アスリートとして高い能力を持っている。走りながらぼくに語りかける。

「でもねぇ、今年の皆生は落ちちゃいましたよ」

 海老沢さんは皆生大会にこれまで三回出場したのだが、今回は出場が認められなかったという。応募者が参加定員を上回ったためだが、トライアスロン大会はこうして参加したくても参加できないケースもある。

 海老沢さんの自転車のフレームに昨年参加した皆生大会のゼッケンプレートが見えた。彼の皆生大会に対する熱い想いが感ぜられた。かつてぼくも宮古島大会に出場した後にプレートをしばらく自転車につけていたことがある。ビリから数えた方が早い成績だったが、それでも「宮古島完走」の誉れをしばらく飾っていたものだ。

 海老沢さんの気持ちが痛いほど分かった。今回始めて参加するぼくが出場できるのに、なんだか済まない気がしてならなかった。途中、海老沢さんと別れた。彼は夕方から運動生理学の勉強があるので戻らねばならないという。

 

 山を下っていく海老沢さんの後ろ姿を見送っていたら、こんどは反対に吉村君がエッチラオッチラ、自転車で上ってきた。大学で学んだ運動生理学を活かしトライアスロン競技を実践している青年で、この春に栄養食品会社「日本インペックス」に就職したばかりだ。ちなみにその会社社長の沼田さんは、社員にトライアスロン休暇を与えるというぐらいトライアスロンに対して理解が深い。

「やあ、これはちょうどいい。この先の峠でビールを飲もう」

「えぇ、本当ですか?運動中にビールなんか飲んで大丈夫なんですか」

 どうやら彼のスポーツ栄養学には”ビール”という言葉はないらしい。しかし、ぼくにとってトレーニング中の喉の渇きを癒し、さらに栄養補給の一挙両得の飲食物は第一にビールである。

「ワッハハ、ビールこそサイクリング時の清涼飲料として最適なんだよ。汗がさっとひいて、しかもカロリーが高いからね」

「ほんとうかなあ?」

「なんだい。キミは栄養食品会社にいながらスポーツドリンクとしてのビールの効能を知らないのかい」

「いいえ、聞いたこともありません」

「よし、それじゃあ、これから茶店へ行って飲もう」

 彼は半信半疑で峠の茶店までついて来たが、

「でも……やっぱり戻ります」

「戻るって、どこへ?」

「えーと、そのォー」

「ははーん。さては、麓のお姫様のところだな。構うことはない。少しぐらい待たせておけばいいさ」

「いえ、やっぱり失礼します」

 そう言い残して吉村君は飛ぶように峠道を下りていった。彼はビールよりもお姫様を選んだのである。

 茶店はサイクリストが好んで上る顔振(こうぶり)峠という標高五五○㍍の峠にある。富士見茶屋といい、その名の通りよく晴れた日には富士山も見えるし、周囲の秩父山塊の山並みも、そして東京方面の平野部も覗ける。この峠にはもう何度上っただろうか。おそらく三○回ではきくまい。四○回ぐらいか、いや五○回ぐらいだろうか。そのたびに茶店の手打ち蕎麦や味噌おでんを食べる。いつもは腰を深く折り曲げながら軒先から出てくるおばあちゃんが、

「いらっしゃい。よく来てくれました。さあさあ、お茶を」

と、しわがれ声で迎えてくれるのだが、ここ数年前から店には出てこない。お店の人に訪ねると、おばあちゃんはお元気とのことだが、なにせ高齢で茶店の仕事ができなくなったという。しかし、この峠の茶店は名物の自家製梅干しとおばあちゃんが居てこそ、よく似合うのだ。

 例によって大瓶ビール一本と手打ちそば一盛りを注文する。茶店の客はクルマでやって来た家族連れやハイキングの若者が多い。隣のテーブルには若夫婦が二人の娘さんを挟んでお弁当を広げていた。

「オレは悪いオヤジだ」

 いまさらではないが、そう思う。こんなお天気の好い日は家族と一緒にハイキングをするべきなんだ。

 

 しかし、今日のトレーニングはこれからが本番である。まだ走った距離は六五㌔に過ぎない。さらにグリーンラインを西へ一○㌔ほど上っていって刈場坂峠へ、それから一端下って、再び正丸峠を目指して上り、さらにまた下ってから山伏峠を上るという上り下りのコースを走るつもりだ。

 練習の一人旅が始まった。傘峠、飯盛峠、まぶな峠といった小さな峠を過ぎていく。途中に関八州の見晴らし台という標識も見えたが、この辺りから眼下に北関東の平野が望める。平野部のたたずまいは上から見下ろすと実に平和に見える。遥か東の方面には筑波山も見えた。

 顔に流れ落ちる汗をぬぐいながら上っていった。顔振峠の茶店から刈場坂峠まで五○分かかった。わずか三○○㍍上ったに過ぎないが、いくつものアップダウンで大分バテ気味だ。茶店で飲んだビールはすでに汗となって飛んでしまった。

「今日のところは正丸峠に行かないで、刈場坂からまっすぐ下りて帰ろうか」

などと思ってみる。これまでも喘ぎ喘ぎ、

「いつやめようか」

 そればかりを呪文のように心の中で繰り返した。家を出てからの走行距離は七五㌔だから、このまま峠を下って帰れば今日のサイクリング距離は一四○㌔余りになる。

「自分としてはまずまずの練習量だ。このまま戻った方が疲れも少ない。疲れが溜まるようなトレーニングはかえってマイナスだ」

 でも今日という日は、皆生トライアスロン完走のために設定したハード・トレーニングの日である。

「たかだか七五㌔走っただけでは話しにならない。これから峠を下って、また次の正丸峠、そして山伏峠へを走り、たっぷりと峠越えを味わわなければならない」

 さまざまな思いが奔った。

 刈場坂峠にはクルマで乗りつけた数組の若いカップルが茶屋の軒先で談笑していた。女性たちは焼き芋を食べながら、ぼくの自転車の姿を物珍しげに見ている。芋の肴にされてはたまらない。休まずにそのまま坂道を下った。正丸峠の入口まで標高差でおよそ四○○㍍ぐらいか。時速六○㌔のスピードで下る。下り終えて、また上りへとギアをシフトする。やっぱり再度の峠越えを選んだのだ。

 しかし、上り始めるやいなや左脚がつる。ビリビリとふくらはぎや腿の筋肉が緊張し、ほとんど左脚でこぐことができない。でも自転車から降りなかった。走りながら直すのだ。ペダルを回しながらストレッチングを繰り返し、脚に必要以上の力が入らないよう体全体を使ってこいでいく。

 標高にして二○○㍍ほど上って正丸峠に着いた。昔はハイカーで賑わったこの峠も、今はオートバイの若者たちのサーキット場となっている。山道をどこもかしこも舗装したからだ。昔のサイクリングといえば山道はもちろんダート、東京周辺の平地でもホコリが舞い上がる砂利道が多かった。いまや日本の山道はクルマやオートバイで溢れている。

 ギューン、ギューン、バリバリバリ…………。

 峠の周辺にオートバイのエンジン音が響き渡る。轟音を鳴らしオートバイ野郎がぼくの傍を擦り抜けていく。抜きざま後向きに乗っていた若者が

「ヘーイ!」

と声をかけて紙の旗を振った。

「ばかものめ」

 ぼくの声は汗とともに地面に落ちる。

 またもや峠を下り峠を上がる。そして山伏峠をクリアした。これからはもう下りだ。今日のトレーニングのピークは越えたのだ。それからというもの次の小さな峠、小沢峠までの名栗川沿いのゆるい坂道を下る。苦しいところを越えた嬉しさか、実に軽快な気持ちで走れた。

 しかし最後の峠、小沢峠の上りは二○○㍍しかないが、途中で自転車から降りて歩こうと思った。ペダルをゆっくり力一杯、踏み降ろす。サドルに座っていると力が入らないので立ちあがった姿勢でペダルをこぐ。腰も痛いし自転車から下りたくて仕方なかった。もう脚や腕の力も使い切った感じである。それでも「あと少しだから」と思いつつこいだ。ようやく峠のトンネルを通過したときは自転車ごとよろけ、その拍子に汗が四方に飛び散った。

 

 さあ、あと家まで三○㌔余りである。すぐ近くの狭山茶の生産農家に寄った。この地を通ると、そこでお茶をご馳走になりながら、お婆さん相手に競輪談義をするのである。というのも、そこのお婆さんは、ぼくのことを「競輪選手」と思い込んでいて、それから一歩も譲ろうとしないのだ。

「ふーん、そうかね。競輪じゃなくて、なに、トラアスロンかね。ふーむ。そうかね」とそのときはうなづいて見せるのだが、次回にまた寄ると、

「どうだね。最近は勝ったかね」

などと言う。いつかトライアスリートの友達のマサヨさんと二人で寄ったら、

「へえ、夫婦で競輪選手かえ。うーむ、女も競輪やるんか」

 またもや競輪にされてしまった。マサヨさんが、

「いいえ、おばあちゃん。そうじゃなくて、私たちはトライアスロンの練習をしているんです」

と盛んに説明するのだが、どうも理解した様子ではない。要するにトライアスロンとかサイクリングとかいう概念を彼女は持ち合わせていないのだ。そうはいっても自転車のことをあれこれ聞きながら、いちいち感心する。特にお婆さんの興味を引いたのは給水ボトルだった。「それは何を入れるものなのか」、「水はどうやって飲むのか」などなど聞いて、「こうして走りながら飲むのだ」と格好を見せると、すっかり感心していた。その関心の仕方は、ちょうどぼくがロードレーサーの実物を初めて接して、それはサドルとかハンドルとかギヤとかペダルなどなど、従来にない形と仕様の自転車に出会った少年の頃と似ていた。

 陽もやがて沈もうとしている。買ったお茶の一袋をバイクジャージの後ろポケットに入れて帰り道を飛ばした。夕日で赤く染まった路面にぼくと自転車の影が走る。こんどは右脚がつり気味だがペダルは回し続けた。

 

 途中でロードレーサーに乗った若者に会う。会ったというか、抜いたら必死になってついてきて、再びぼくを抜き返えす。しかしまたスピードが落ちてぼくに追いつかれたり抜かれたりすると、ギヤをシフトさせて力任せにペダルをこぐ。とにかく脚には自信があるから負けまいという気合いだ。自転車に乗る姿勢やペダルの回し方はまるでなっていない。おそらく自己流に乗っているのだろう。両脚の筋肉のつき方はランナーの脚だった。

「しかし、まいったな」

 サイクリングすると必ずこのたぐいの青少年やおじさんと出会う。競争意識まるだしで執拗にくっついたり追い抜いたりしてくる。こういう人たちと一緒に走ると実に危険なのである。第一ぼくは疲れている。まとわりつかれたくないのだ。思い切って千切るか、少し間隔を置いて後からいくよりほかにない。ちょうど赤信号で二人は止まった。

「速いね。どこまで帰るの」

 すると、その若者は息をはずませながらぼくを見て、ぽつりと一言答えた。

「なかの」

 残念ながらこの先もぼくと同じ街道を走るようである。

「でもキミ、ヘルメットかぶりなよ。あるんだろ」

 ぼくの忠告に若者は不審気そうな顔をした。そして信号が青に変わったら若者は我先にと飛びだしたが、しばらく行ったところでぼくは彼を抜いた。すると若者はギアを一番重くして懸命についてきたが、そこでまた、ぼくはペダルの回転をあげ猛然とダッシュした。年甲斐もなく、ぼくも必死になった。それで若者はようやく遥か後方に下がった。

「つかれーたァー」

 こうして今日のバイク・トレーニングが終わった。全走行距離は一六○㌔。峠を越えること八つ。会ったサイクリストは最後の若者を含めおよそ一○○人。一日サイクリングすると、実にこんなに多くの仲間たちと会えるのだ。そのうち海老沢さんや吉村君という親しい仲間とも会えた。

 

 家に戻ってから四㌔ほどランニングして、食卓についたのは八時を回っていた。体重は朝から三・五㌔も減っている。朝から食べた物はピザ半分、紅茶三倍、緑茶二杯、缶ビール一本、手打ちそば一杯、チョコレートパン一個、カルシウム飲料一本、それとお茶屋のお婆さんからいただいた飴玉一個である。ダイエットを兼ねて食べ物を抑えたのである。とはいえ夕食ではビールをグイグイ飲み、ご飯も沢山食べた。

 夕食の最中、今日は父の日だからといって子供が感謝状とミニチュア・ウィスキーをプレゼントしてくれた。感謝状には次のように書いてある。

 「敬愛するお父さんへ 怒るとこわいお父さん。でもほんとはやさしいお父さん。あなたはこの一年間、私共家族のリーダーとしてめざましい活躍をされました。ここにその功績をたたえ心ばかりの品を贈呈し深く感謝の意を評します……。あなたを愛する家族一同」

  ほんとかな?という感じである。いわゆる父の日に合わせて売られている感謝状であろう。文面はオーダーできるのかもしれない。一日中サイクリングで遊び回って、ちっとも感謝される資格はないのに、なんだか悪いなあ。

 

夏は来ぬ

 

 今日は夏至の日。夜は短く、昼間がもっとも長い。書類を整理したり原稿を書いたり電話をしたりで一日中、部屋にいた。座っていても汗が流れてくる。夕方のラジオから「関東各地で気温三七度以上の記録を達成した」とのニュースが流れていた。

 夕方からジョギングに出掛ける。昨日のジョギングもそうだったが走りだしても脚が重い。腿を上げる素軽さがないのだ。途中でやめたくなる。だるさを感じる。先週、日曜日の一六○㌔サイクリングをはじめ、今週のハード・トレーニングの疲れが出ているようだった。

 おかげでこの数日、ひとつも運動をしていない。というよりもできなかった。仕事が立て込んでしまったせいもあるが、練習疲れの兆候が出てきて思うようにトレーニングできないのだ。特に左脚にだるさを感じる。駅の階段をあがると腿の筋肉がキーンと張ってしまう。たった駅の階段をあがるだけでだ。どうやら六月一ヵ月間のトレーニングの疲労が押し寄せているようだ。

 この間にビタミンB入りの生薬を続けて飲んだが、一向に筋肉の懲りは解消しない。再びビタミンBが多量に入っているという滋養強壮剤を薬屋で求めた。肉体の疲労回復にビタミンB群は有効なのだ。またビタミンCの原粉末アスコルビン酸を購入した。このアスコルビン酸は特に夏場によく飲む。粉末を水に溶いて飲むのである。運動で失われ補給しなくてはならないビタミンCを直接、摂取するためである。しかし、いずれも即効性は表われなかった。

 その後も数日、脚が懲って面映ゆく、朝方に目を覚ましてしまう。徒手体操とストレッチもやる。生体調節のためのカイロ・プラクティックにも積極的に通った。トライアスリート友人、大庭さんが治療してくれた。

 

 七時からのプールのオープンタイムまで時間つぶしに街を歩いていたら「黒い弾丸」と評される山倉和彦選手と会った。背が高く顔も体も真っ黒、弾丸のごとく猛スピードで走るでその名がついている。彼も夜八時からのクラブのスイム練習会まで時間をつぶさなければならないというので、コーヒーを飲みながら歓談した。これから本番を迎えるトライアスロン・シーズンで日本中を遠征する彼は、

「忙しいですよ。練習もしなくてはいけないし」

「大変だね、選手生活も。その点、ぼくは気楽なもんだ」

「サクライさんは今年、どこの大会に出るんですか」

「皆生」

「皆生ですか。ハッハ、それはすごいですね」

「なにが可笑しいんだい」 

「だって皆生はきついでしょ。完走できるんですか?」

「できるさ。ぼくはどの大会でも完走率百パーセントなんだよ。それよりキミこそ優勝の二つや三つとったらどうだい」

「ええ、大丈夫。期待していてください」

 山倉選手は大きな目玉をキラリと光らせた。そして彼は駅前の入場料七○○円の民営プールへ、ぼくは少し離れた入場料二五○円の区営プールへと向かったのである。

 

  この区営プールは中学校の体育館と併設されていて、いつもは子供たちの教育施設として利用されてるが、土曜と日曜の午後とウィークデーの夜間は一般に開放されている。駅から離れた施設だから、地元の人たちにしか知れていないという面もあるだろう。都心のプールと比べるとはるかに空いている。お陰で長い間泳ぐことが可能で、トライアスロンのトレーニングの場としては最適だ。ぼくのスイム道場である。

  プールには先にジェイシーの中村さんが来ていて、早くもビート番を持ってバタ足の練習をしている。熱心で真面目な人である。一年前にクラブに入会したとき、彼はぼくにいろいろ聞いた。

「どうしたら泳ぎが上手になれますか。練習はどうやればいいですか」

「ではバタ足を二○本やってください」

「二○本って、往復ですか?」

「そうです。往復五○㍍で二○本。だから一㌔ということになりますね」

「エエッ!」

 彼は目を真丸にして驚いた。もとよりぼくは水泳を人に教えるほど上手でないし、またその資格もないが、「そういう気持ちで取り組みなさい」という意味合いで言った。なぜならば彼のキックがあまりにも下手だったからである。しかしそれ以来、中村さんはぼくのアドバイスを忠実に守り、プールで泳ぐたびに二○本のバタ足練習を続けた。その甲斐あってか、今や一㌔や二㌔もなんのその、クロールもぼくより速く泳げるようになってしまった。この間わずか一年、四○歳になるというのに驚いた根性である。

  一方、ロープの張られたコースで夢中に泳ぐ若者がいる。五○㍍ごとのインターバルをやっているようだ。スイミングキャップの色と泳ぐフォームで瀧口君であることがすぐ知れた。ジェイシーでは大島君と同じく二○歳の学生で、共に優れたトライアスリートである。ただ大島君が天才型だとすれば、瀧口君は努力型のアスリートである。だから瀧口君は練習を積み重ねた分、より強くより速くなってきている。大学の陸上競技の選手だからマラソンは速いし自転車もまずまずだが、ウイークポイントは水泳だ。それでスイム練習に力を入れてるのだろう。

「ハワイ大会に出たいです」

 大学生のうちにアイアンマンになりたいという志願者のひとりだ。社会人になるとトレーニングの時間も減るので学生時代に極めたいという。しかし、アイアンマンになるには日本の予選大会にも出なければならず、お金だけでも四、五○万円かかってしまう。瀧口君はこのスイム練習が終わった後、皿洗いのアルバイトにいく。

 もうひとりジェイシーのメンバーがプールの中で歩いている。前川さんだ。彼は学生時代、自転車競技のピスト選手だった。練習のし過ぎもあったかもしれないが、社会人になって腰の骨を痛め現役を引退、今は自転車選手たちの指導やメカニシャンをやっている。プールではリハビリがてらに泳いだり歩いたりしているのだ。ぼくを見付けると立ち止まり、ニコッと笑ってまた歩きだした。

 さーて、ぼくはゆっくりクロールで泳ぎ始めた。イージーロングといってスローペースで長時間泳ぐ。一㌔ほど泳いだろうか。いつの間にか誰かが後ろについてくる。時折、二人の間隔が詰まって彼の掻く手がぼくの足先に触れる。そのうちぼくを抜かした。

「負けるものか」

 彼の後についた。それからまた七○○㍍ほど泳ぐと相手のスピードが落ちてきたので、こんどは抜き返す。ついつい力が入ってしまい左腕の筋肉の痛みも忘れるほどだった。お陰でいい練習になった。トータルで三・三㌔泳ぐ。いつもの練習量より八○○㍍も多かった。

 

 梅雨時の北東の風も止んで、このところ蒸し暑い日が続いている。毎年夏になると、隣のアパートの青年がクラッシックギターを奏でてくれる。そのギターの音色を聞きながら眠りに入る。酒でほてった体に網戸から入ってくる夜風が気持ちいい。

 三日連続の熱帯夜が続いて梅雨が明けた。朝から空はカンカン照り、お昼には気温も三五度まで昇り正真正銘の夏がきた。原稿を書いているだけなのに体のあちこちから汗が湧いてくる。ワープロを叩く手首から汗が流れる。うだるような暑さとはこのことか。皆生に行く前に書き上げたいのだが頭がボーとしてなかなか進まない。これでは皆生大会は灼熱地獄のトライアスロンとなるに違いない。

 思案のしどころだった自転車は結局、オレンジ色のロードレーサーと決めた。フレームカラーでいえばシャインホワイト、スカッシオレンジ、メタリックゴールドの三台のロードレーサーがあるが、これらはフレーム・スケルトンやフレームの材質、パーツのサイズや性能も異なっている。当初はもっとも軽いメタリックゴールドのレーサーで皆生を走るつもりだったのだが、一昨日のサイクリングで乗ってみて方針を変更した。

 変更の理由はクランクの長さだった。本当はクランクが長い方がそれだけテコの応用で踏み込めて、特に上りが多い山岳ルートには有利なのだが、今回は中間の長さのクランクがセットしてあるオレンジを選んだ。それというのも一番長いクランクを選ぶとそれだけ踏み込んでしまうので逆に脚への負担も大きく、ランの脚に影響すると考えたからである。

 また、そこまで踏み込める自信がなかったのだ。皆生大会まであと六日、ようやく脚の筋肉の懲り具合はとれつつあるが、やはり駅の階段を上がり終えると疲れを覚えるのだった。これまでのトレーニングの疲労が脚の筋肉や体の奥に溜まっていて、それがとれない状態が続いていたからである。思いもかけず回復力が落ちていることを悟った。

 

 今日も朝から一日中、原稿を書く。皆生から帰って忙しくなるので、なんとしても今日中に書きあげておかないとまずかった。幸い今日は猛暑も衰えてはかどった。夕方に書き終える。これで明日、皆生に行ける。トレーニングはしなかった。

 結局、七月のトレーニング量は二○日間のうち練習日が九日、休養日が一一日となった。この結果、五月一七日から二ヵ月間のトレーニング内容はハードな日が二日、ミドルが一○日、イージーが二九日となり、合計で四一日間のトレーニングを行ったことになる。これは計画より一日多く練習したことになるが、内容的にはハードとミドルの練習が少なく、イージーな練習が中心となった。ハードな練習は計画よりも三日少なく、ミドルも五日少ない。それに対してイージーな練習は九日も多かったのだ。反対に休養日も二四日で、計画より四日多かった。七

月に入ってから出てきたトレーニングの疲れが大きなブレーキとなったからだ。しかし、もうジタバタしても始まらない。あとは明日の出発を待つだけである。

 

いざ皆生へ

 

 大会前日の七月二一日、午前六時。いよいよ皆生へ向けて出発する朝がきた。

 機中の人となったぼくらトライアスリートの仲間一行は、眼下に見える褐色の富士山に歓声をあげた。久し振りに空から眺める富士である。空は真っ青に晴れあがり、銀色の翼に太陽光線がギラギラ反射した。

 ノリコさんは生まれた初めて乗った飛行機に大はしゃぎだった。独身時代はよく旅行はしていたようだが、飛行機は恐くて乗らなかったという。

「ねぇ、動いているわよ」

「そりゃあそうだよ。これから飛ぶんだよ」

「ああっ、飛んだ、飛んだ!」

 叫びながら笑っている。おかしくてしょうがないといわんばかりに小声でしばらく笑っていた。そのうち飛行機がアルプス山系の上を飛ぶ頃には落ち着いたのか、ジッと窓の外に映るパノラマを眺めていた。それでも時折、「あの雲の形が面白い」とか、「山の姿が恐ろしい」とかぼくに耳打ちするのだった。

 そういえば今日の午後、サンフランシスコに向けて旅立つ友人のツバキとジュンコさんは、果たしてこの富士を見るだろうか。ツバキの恋路の果て、ようやく射止めたジュンコさんと二人で新婚旅行に行く日でもあった。

「まあ、あいつのことだ。うまくやるだろう。なにもオレが心配することもない」

 ふと彼らのことが脳裏をかすめたが、思いはすぐに消えた。

 

 空から出雲の国が見えだした。初めて山陰の地に入るのだ。二○代も終わりの頃、山口での仕事を終えて萩から出雲への旅を計画したことがあったが、「親父が倒れた」との知らせで急拠、東京へ戻った。そんなことがあってこれまで山陰の地には足を踏み入れないまま今日におよんだ。しかし今回もレースの終わった翌日には、また飛行機で東京へ帰るのである。

 米子空港についてからホテルへ向かうクルマの中、タクシーの運転手さんから皆生温泉の由来を聞いた。それによると皆生温泉は今から六○年前の昭和の初めに温泉が吹き出て、砂の浜辺から一転、大歓楽街になったという。しかし、山陰の歓楽街も時代の流れとともに老化、衰退していく。そこで考えついたのが人寄せとしてのイベントの開催であり、当時の日本では誰も手をつけていないトライアスロンに着目した。だから皆生トライアスロン大会の主催者は皆生温泉旅館組合なのだ。町興し、村興しのイベントとして企画されたトライアスロン大会の原型がここにある。

 一九八一年八月に開かれた第一回大会はスイム二・五㌔、バイク六三・二㌔、ラン三六・五㌔のいわゆるミドルタイプで行われ、参加者五三人のうち女性二人を含む四九人が完走した。このとき歌手の高石ともやさんと熊本の下津紀代志さんが仲よく手をつないでゴールイン、ともに優勝を分け合ったのである。

 また、この第一回大会の開催に当たって企画から運営に至るまで参加、協力したのが日本人として初めてハワイのアイアンマン大会に出場、完走した熊本の堤貞一郎さんと永谷誠一さんである。お二人のハワイ大会参加の経験が生かされ、日本で初めてトライアスロンの灯が皆生にともされたのである。しかし、日本のトライアスロン界の父ともいうべき堤さんは、第三回皆生トライアスロン大会においてスイム競技中に事故に遭い、その後、意識を取り戻すことなく五年後に永眠された。

 

  その皆生の海と対面する。三保湾にのぞむ弓ヶ浜、または夜見ヶ浜と呼ばれている砂浜の海岸だ。一○回大会を記念して建てられた”トライアスロンの碑”の前の砂浜と海が明日のスイム会場となる。子供連れの家族や若い男女が海水浴に興じている。海小屋の周りに無雑作に乱立している小旗が風に吹かれてパタパタ音をたてていた。

 風のせいか大分、波もありそうだ。水温が計れる腕時計をつけて海の中に入った。水温が高ければ、明日はウエットスーツを着ないで泳ごううと思っていたからだ。その方がトライアスロンらしいと思った。水温は二九度あった。太陽がカンカン照りの昼間だから高いのは当然だが、この分では明日の朝の水温も二五、六度はあるだろう。裸で泳ぐのにちょうどよい水温だ。また塩も思ったほどからくない。まずまずだ。しかし、波は強かった。明日も強いだろうか?

 東京から段ボールに詰めて送った自転車はホテルに届いていた。段ボール箱からフレーム本体、ホイール(車輪)、それにヘルメットやシューズなどバイク用具一式を取り出し組み立て作業を始める。明日のレースのために自転車は組み立てて十分に調整しておかなかればならない。といっても組み立てはそれほど大変ではない。問題はブレーキの効きやディレイラー(変速メカ)のかかり具合い、ホイールの振れなどの微調整である。

 ところが調整しているうちに、フロントのブレーキワイヤーを止めるパーツが老朽化しネジ切れを起こしてしまった。早くもお手上げである。その金具がなければ明日は後ブレーキだけで走らねばならない。山道、坂道の多いコースだけに心配である。でも、よかった。大会をサポートしているメカニシャンのところへ運び込んだら、幸いにも規格通りのパーツがあって、無事ブレーキが作動するようになった。皆生の土地は煮えたぎるような暑さだが、ぼくは「もしもパーツがなかったら……」と思いつつ冷汗をかいていた。

 こうして海も自転車も明日のためによく点検、確認しておく。良い成績をあげようというのでなく、まずは事故のないよう安全に行うためである。知らなかったり、あるいは気付かなくて、それが原因でアクシデントを起こさないためにチェックする。

 夕方の四時から選手の登録が始まり、その後開会式が行われた。明日の出場選手たちがぞろぞろ会場に集まる。あちこちの大会で会った顔が並ぶ。お互い挨拶を交わすが、なかには知らない人も挨拶してくる。だからこちらも挨拶する。お互いトライアスリートなのだから、それでいいのだ。

 

 その中にトライアスロン漫画家の古川益三(マスゾウ)さんもいた。ぼくもトライアスロンをやって原稿を書いている身だが、彼もトライアスロンをやりながら漫画を描いている。お互い因果な商売をやっている同士だ。しかし同じトライアスロンを材料にしても、ぼくが書く原稿はどうしても堅苦しくなりがちだが、彼の漫画はなんといっても愉快で楽しい。マスゾウさんは、

「サクライさん、あまり難しいこと書かない方がいいよ。愉快で楽しくっていう調子でやらないと、ぼくみたいに招待選手になれないよ」

「しかし、今現在を喜んでいるだけでは駄目ですよ。トライアスロンを本物のスポーツにするためには、その発展基盤とシステムづくりを考えなくてはならないんです。それであれこれ、苦言を呈することになっちゃうんだけど」

「そうなんだけどさ。でもぼくらだけだよ。そんなサクライさんの気持ち、解っているの」

 また皆生大会の一ヵ月ほど前、彼とたまたま電話で話したとき、

「琵琶湖も出るし、皆生にも出ます。その方が調子がいいんですよ。皆生だって、サクライさんに負けないよ」

などと得意がっていた。

 その琵琶湖の大会は、今年は皆生大会の一週間前に行われる。この大会もスイム三・九㌔、バイク一八○・二㌔、ラン四二・一九五㌔のロングタイプだ。それなのに琵琶湖の一週間後に皆生トライアスロンをやるなんて、ほとんど気違いである。

「ハッハ、そんなにやっちゃあ体を壊しちゃうよ。やめといた方がいいですよ。もう四○になるというのに、今から強くなるわけないじゃないの」

って言うのだけど、

「そんなことはありませんよ。ぼくは強くなるんだから。さぁーて、これから練習にいこうっと!」

 まさに因果をマンガで描いたような男なのだ。

 

 開会式を終えホテルに戻って、主催者から配られたゼッケンを着ける。スイム、バイク、ランの三種目のウエアや用具を点検し、整理して袋に詰める。このとき、明日どのように走るか、いろいろレースをイメージするのである。ウエアにゼッケンを着けるときほど自分が選手であることを自覚する。

「いよいよ明日か。楽しみだなあ。久し振りのトライアスロンだし。エイドステーションで沢山スイカを食べよう」

などと思ったりするのだ。

 夕食で広間の食堂に下りた。コの字型にいくつも並べられたお膳の前には、明日のトライアスロンに選手として出場する者とその奥さんや子供、あるいはお爺さんやお婆さんが座っている。家族ぐるみで応援にきた人たちである。

 この土地の名産品をお女中に聞きながら、「水雷」という地酒を熱燗で飲む。「旨い」と感心するほどではない。察するに鳥取という土地柄はスイカやメロンやナシやリンゴなど野菜、果物の産地なのだろう。米や酒、魚や肉の話しはひとつも出なかった。

  お銚子は一本だけでやめにした。明日のことを思ってではない。大半の人たちが食事を終え、ぼくら夫婦は居残り佐平次になってしまっていたからだ。他のホテルに泊まっている仲間を訪ねて酒を飲もうと思ったが、さすがにこれから酒盛をしようという者はいない。ホテルのロビーでくつろぐ者、自転車の調整をしている者、ゼッケンを糸で縫っている者、そして早くも布団をかぶって寝ている者と、それぞれ明日に備えている。カレー屋のタカオさんは早くもイビキをかいていた。肉厚の頬をつねってみたが、まったく起きる気配はない。仕方なく自分のホテルに引き換えし寝ることにする。明朝は四時半に起きなければならない。

 

アスリート修行いく年月

 

嘲笑渦巻くスイミング・スクール

 

「はーぃ、息を吐いてぇー」

 小森先生がプールサイドで号令を掛ける。なんと水の中で息を吐けというのだ。しかも鼻からだ。

「そーう、はい、こんどはパッと息を吐いて吸う!」

 パッと吐いて吸う?そんな器用なことができるのか?生まれて初めて知る事実であった。それまで平泳ぎしかできなかったぼくは水面上に顔をあげながら息を吐き息を吸っていた。だから呼吸は空中で行うものと思っていた。ところが、このスイミング教室の初級コース第一日目に、まったく想像だにしなかった呼吸法を教えられたのである。すでに泳げる人はこんなこと初歩の初歩、常識もいいところだろうが、水泳を習ったことない者にとっては考えられなかったことである。ぼくが三九歳になろうとする秋のことだった。

 ぼくが入った初級コースその一クラスには、中年もしくは老年の女性を中心に水泳のズブの素人か、長年教室に通っていても上達しない人たちが集まっていて、それら生徒に小森先生が親切丁寧に水泳のイロハを指導しているのであった。生徒のうち男性はぼくのほか二人のみ、あと二○人余りは女性である。このコースは泳ぐというよりもまず水に馴れるという程度の実習で、手も脚もバラバラな状態をいかに水の中でバランスさせるかがテーマのようであった。

 そうはいっても水の中では鼻からうまく息がでない。面かぶりしていると苦しくなってしまう。水をガブガブ飲んでしまう。クロールといったって、どうやって腕をあげたらいいのか途中で訳分からなくなってしまう。そんなぼくが、果たしてクロールをマスターすることができるのだろうか。プールの真ん中で立ち止まって「ゴホン、ゴホン」咳き込むぼくの姿を見て同じコースの女性たちにドッと笑われしまい、先行きのあまりの暗さに絶望せずにはいられなかった。家に帰ってノリコさんが、

「どうだった?水泳スクール楽しかった」

などと聞かれて、

「うん、まあまあだな。なんとかやれそうだよ」

などとまったく逆なことを言いたくなるほどつらい初日だったのである。

 しかし、それも半年ほど経つと、クロールで二五㍍がなんとか泳げるようになって、小森先生から、

「はーい、サクライさん。結構ですよ。では来月から上のコースにいってください」

などと言われたときは天にまで昇る思いがしたものである。それからのぼくの昇進? はめざましく、ブレストもバックストロークもバタフライも一通り泳げるようになって、中級から上級コースへとのし上がっていった。この間に二年の歳月が流れた。初級コースその一でぼくをあざ笑った女性たちは、

「サクライさん、ほんとーにお上手になりましたのねぇ。こんど私たちを教えていただけませんでしょうか。ホホホ」

などと言われると、果たして彼女たちはぼくを尊敬しているのか、あるいは今なお馬鹿にしているのか解らなくなるのだった。

 

 ちょうどスイミング教室に通いだした頃、伊豆・修善寺の日本サイクルスポーツセンターで行われる第一回CSCトライアスロン大会へ出場することが決まったが、結局このときはスイム一㌔の距離をすべて自己流の平泳ぎで通した。スイム競技はセンターのプール施設で行われたが、一番後ろの方からスイスイ、アメンボウのごとく泳いでブービーでゴールした。それでも大会前には、

「とにかく大会距離と同じ一㌔を泳いでみよう」

と、ぼくのスイムの道場である区営のプールで必死に練習した。それでもブービーなのだから、いかに遅かったかが分かるだろう。

 翌年六月の第一回仙台トライアスロン大会に出たときは、その頃にはいくらかクロールできるようになったので最初からクロールで泳ぐことにした。ところがスタートすると例によって水中バトルで溺れそうになり、慌てて平泳ぎに切り替えた。いくらプールでクロールができるといっても、半年程度の手習いではまったく実戦に通用しないことを思い知った。第一、クロールで泳いでも平泳ぎの選手に抜かれてしまうほどだった。

 一・五㌔のスイムに四七分かかり、完走者四八七番中、四三○番であがった。水温は一九度と非常に冷たく、スイムからあがってテントの中でしばらく震えていた。震えがきて思うように着替えができなかったのだ。それもその筈である。トップ選手たちの二倍以上の時間を冷たい水の中で泳いでいたのだから。トライアスロンは水泳が上手でないと損すると、このとき思い知った。

 

 スイミング教室では中級クラスになってからは、もっぱら中原さんという怖い女先生に教えてもらった。彼女は世界マスターズ女子バックストロークのチャンピオンになった栄光の選手で、今もなお世界への挑戦を続けている。そのかたわらスイミングコーチや心身障害児のリハビリテーションの面倒をみてスポーツ人生に情熱を注いでいる人である。トライアスロン大会にも参加しており、「ジョギングを教えてほしい」といってジェイシーのメンバーにもなっている。

 ぼくは時々、彼女が中心となって開いている水泳クラブの練習会に参加する。そして泳ぎ終わって、ビールを飲む段になると早速、叱られるのだ。

「サクライさん、今までなにをやってたの。ホホッ。おかしな腕のあげ方して」

「そうですか。おかしいですか」

「おかしいなんてもんじゃないですよ。こうでしょう、リカバリーの場合は……ネッ」「おー、イタタタッ」

 ぎょうざと焼きそばが並ぶテーブルの上で、ぼくの腕は中原さんに強引に引っ張られねじ曲げられるのだった。相変わらず彼女の指導熱は衰えることがない。

 その中原さんの中級コースの時代に東郷さんとも知り合った。サイクリングが好きだというし、近所に住んでいるので「泳ぎだけでなくサイクリングもマラソンもやろう」と誘って、それでジェイシーのメンバーになった。

「自分が自転車の選手としてどこまでやれるか、やってみようと思ってんです」

 一般の社会人としての生活を続けながら自転車競技選手として日々、トレーニングに励んでいる。それでいて初めてのフルマラソンでも三時間前半のタイムで走ってしまうのだから強いアスリートである。

 こうして中原さんや東郷さんのように三○歳を越えても現役選手としてスポーツを楽しみ、常に向上心を燃やしている素晴らしい人たちがいる。ぼくのように「勝っても負けてもいい」というような、いい加減なものではないのだ。

 

世界の子供を育てろ

 

 いつもぼくが泳いでいる区営プールに、スイミング教室・初級コースの同期生である手塚さんが小学生の娘さんとやってきた。娘さんもスイミング・クラブに通っているそうで泳ぎが上手である。クロールでもバタフライでも、なんでもござれという感じで泳いでいる。

「親に似なくてよかったですね」

 冗談混じりに話すと、手塚さんは苦笑した。

「子供にはかないませんよ。しかし、ぼくもサクライさんと同じく四○の手習いですからねえ。まあ、こんなもんでしょ」

 手塚さんは今後ともマイペースで、ゆっくり時間をかけて水泳をマスターしていこうという。

 ところで息子のセイジも町の水泳教室に通っているが、手塚さんの娘さんのように上手な域には至らない。ようやくクロール、ブレスト、バタフライ、バックといった水泳の基本四種目はできるようだが、泳ぎ方とそのスピードの点で評価できるのはブレシトとクロールのみである。クロールは得意のようで、プールで一㌔ほどぼくと一緒に泳いだことがある。彼も親に似てチビの長距離タイプなのだろう。

 セイジが小学四年生の時だったが、親子マラソン大会の五㌔の部に出場して入賞したことがあった。「四年生で五㌔は長いかな」と思ったが、距離が短ければそれだけスピードが要請される。本人も「長い方がいい」というので走らせた。スタート直後彼は猛然と走りだした。親よりも先に走っている。クリクリ坊主の頭が盛んに左へ右へと揺れている。トップ集団で走っているのだ。ようやく追いついて、

「もっとスピードを落せ」

と怒鳴った。目一杯走らせたくはなかったからだ。どのみち上級生ばかりだからセイジが優勝することはあり得ない。公園の池の周りを三周してゴール、彼は二五分で走った。

 

 ぼくは子供をスポーツで酷使したくないのである。「スポーツは楽しくやらねばならない」という考えだからだ。それと運動生理の面からも、思春期以前の幼い子供に必要以上のハードな運動を行わせてはならないとの教訓もある。子供には運動を正確に行わせること、すなわち敏捷性や巧緻性あるいは平衡感覚だとか柔軟性など総じて基礎的運動を行わせるのが良い。子供の体の中にさまざまな運動神経回路をつくって、総合的な調整能力を発達させるべきである。ぼくは少年野球に見られる盲目的な根性主義は嫌いだが、スポーツ科学の面から子供たちが運動としての野球を取り入れていることは好ましいことだと思っている。なぜならば野球は、子供にとって必要な運動特性を併せ持っているからである。

 だから親のぼくはセイジにマラソンを教えたこともないし、またやれともいわない。本人が面白い、楽しいと思ったスポーツをやればいいのである。”アイアンキッズ”という子供のトライアスロン大会も開かれているが、見ている限り大人のやらせとしか映らない。遥か沖縄まで子供を連れて行ってトライアスロンをやらせるなんてバカげているとしかいいようがない。

 たまに区営プールに姿を見せる母と娘がいる。単に母と娘ならばどうということもないだろうが、痩せ細ってヒステリックな母は小学生低学年の娘をしごいている。水泳の特訓である。娘の泳ぎをプールサイドで見てあれこれ指示している。娘はプールの中で泣いている。そして指示されたとおり泳ぎだす。それにしても娘の泳ぎは素晴らしい。四つの泳法を五○㍍づつ連続して泳いでしまうのである。いわゆる二○○㍍個人メドレーだ。しかも速い。おそらく日本を代表する水泳選手に仕立てあげようというのだろう。フィギアスケートや体操など他のスポーツ世界でも見られるごとく、子供の頃から鍛えてオリンピックを狙わせるつもりらしい。

 しかし、そういうやり方をぼくは好まない。子供の将来に夢を託すのは結構だが、その方向と実践を一方的押しつけるべきではないという考えからだ。子供は自ら学び、自ら道を選べばいい。何になろうと親が知ったことではない。親が子供にできることは、子供が将来の方向を選択するための精神と肉体を鍛える方法を教えてあげることである。英才教育でつくりあげた子供なんて学問の世界も同じだが、とかく人間的な魅力に乏しいものだ。

 日本人だけではないだろうが、最近の傾向としてスポーツを幼少の頃から専門的にやり過ぎる。大人たちの都合に合わせてしまうのだ。それは学校も同じである。高校の三年間で、できるだけレベルアップさせようとしている。その結果を教師や監督たちが自慢できるからだ。毎年、京都で行われる全国高校駅伝大会には四十七都道府県の代表チームが出場するが、この大会に出場したおよそ三○○人余のうち何人が日本の一流ランナーに育ったろうか。むしろ高校時代に補欠だった選手が一流選手になるケースの方が多い。早く育てて、将来伸びる芽を摘んでしまう結果である。

 所詮はその場限りなのだ。青少年のスポーツとの関わりをロングレンジで見ようとしていない。長い時間をかけてスポーツマンを育てようという姿勢が感じられない。せかせかと働いて稼いで生きていく日本人の性格が浮き彫りにされた格好だ。

 

 日本では世界のトップクラスに入るアスリートがなかなか生まれてこない。その要因のひとつが幼いうちからスポーツを特科してしまうことである。そのためにオールラウンド的な基礎体力が養われないのだ。幼いうちから水泳をやっていれば確かに水泳に必要な運動機能や筋肉は備わるのだが、肝心な基礎体力が十分に育っていないために、あるレベルにきたらそれ以上伸びないという行き詰まり現象にぶち当る。運動能力のキャパスティが十分育たないまま終わってしまう。キャパスティとは「アスリートが持っているパイ(器)の大きさ」という意味である。

 第二に日本人の体型、体力が欧米人に対し劣っていることがあげられる。欧米の狩猟的、肉食民族と異なり、土に生きてきた稲作農耕民族との違いだろうか。しかし、これは決定的な事象ではない。スポーツの種目によっては欧米人よりも優れた特性を発揮することだってあるからだ。

 第三に体力格差に対する劣等意識もあるのだろう。概して日本人は欧米人よりも劣っているという先入観が働いている。いわゆる二流意識が支配しているのだ。だから世界のトップになることを考えようとしない。日本人で一番になれば良いという意識が先に立ってしまいがちだ。「日本の中でちやほやされればいい」という島国根性から、なかなか抜けだせないのが通例である。

 体型・体力の差は運命的なところもあっていかんともしがたいが、基礎体力をつけることと二流意識を捨て去ることは生きているうちに改善できる。それは学校教育においても少年野球チームなど町のスポーツクラブにおいても可能だ。自転車王国のイタリアでは、青少年の自転車競技の教育はもっぱら町のクラブが担っている。そのクラブリーダーたちは少年たちが乗る自転車には軽いギアをセッティングする。決して重いギアで自転車をこぐことはさせない。必要以上の負荷を子供には与えてはならないという考えだ。なぜならば、じっくり鍛えて世界一の選手を育てたいからである。

 スポーツに限ったことではないが、これからの時代は子供を国際人として育てる視点が大切だ。我が子ではない。日本の児でもない。世界の子供としてである。

 

エアロビクスが体を変える

 

 人間が優れた運動を行うには俊敏な運動神経と強靭な筋肉が必要とされるが、それだけでは運動はできない。なによりも運動エネルギーとしてのグリコーゲン(多糖類)や脂肪類が必要とされる。しかし、人間が筋肉中に蓄えられるグリコーゲンの量は八○○~一、○○○㌔㌍で、これは糖分二○○㌘に相当するが、それ以上のエネルギーを体の中に蓄えることは難しい。

 だから、たとえば何も食べないで運動すると二時間もしないうちに人間はガス欠を起こしてビタ一文、動けなくなるという仕掛けだ。そういう意味で四二・一九五㌔のフルマラソンは二時間以上かかる競技だから、おのずとガソリン切れが起こりやすくゴール手前でギブアップするケースも見られる。これに対しトライアスロンは競技時間が長いものの随時、食物補給が可能なのでガス欠によるダメージの例は少ない。トライアスロンが結構、誰にでもできてしまうのは、こんなところにひとつの要因があるといえるだろう。

 また、マラソンやトライアスロンなどエアロビック・エクササイズによってもたらされる持久的運動能力を通常、最大酸素摂取量<Vo2max ml/Kg/分>という言葉で表わす。一分間に体重一㌔㌘当たり、どのくらいの酸素を体内に摂り入れる能力があるかという指標である。ぼくが三九歳の時、トレッドミルを使った精密測定では六二・二mlだった。アスリートとしては並みの数値といったところだろう。これがオリンピックのマラソン選手になると七○ml以上といわれている。酸素摂取量が多ければ多いほど優れている証拠である。

 ところで運動で消費したエネルギー量以上にグリコーゲンを摂取すると、それはすべて血中脂肪(動物性コレステロール)となって、最終的に皮下脂肪となってしまう。だから肉ベーコンのロール巻きとか鳥の手羽先の唐揚げなど油ものを食べないからといって体の中に脂肪が溜まらないわけでなく、余分な血糖はすべて脂肪になると考えた方がいい。

 ちなみに脂肪を一㌔㌘消費するためには九、三○○㌔㌍の運動をしなければならず、これはジョギングにして九三○分間(一五時間半)行うことになる。だから三㌔も四㌔も余分な脂肪が付いている人はその三倍も四倍も運動しなければ脂肪はとれない勘定だが、第一そんなに長く運動できる筈がない。また全力疾走したとしても、その半分の八時間近く運動しないと一㌔㌘の脂肪は燃焼しない。もっとも全力疾走では脂肪は燃えない。ゆっくり走らないと脂肪は燃えないのである。

  こうしたことから国では一日の運動所要量を成人男子で三○○㌔㌍と定めている。これはジョギングにして一分当たり一二○~一四○㍍のスピードで四○分、一分当たり一八○~二二○㍍のランニングにして三○分の運動に相当する。歩くだけならば一時間四○分歩く必要がある。また通勤で自宅から最寄りの駅まで自転車で通うとしても、一時間こがなければ三○○㌔㌍を消費することはできない勘定だ。

 さてもうひとつ、女性がもっとも関心を抱いていることがある。体脂肪率である。

これは運動能力の指標ではないが、その数値によって体の状態や運動した効果を予測することができる。体の中の脂肪分が全体重のうち何パーセントあるかを器具やエレクトロニクス技術を使って測定するのだが、最近計ったぼくの対脂肪率は一一・五%だった。年齢の標準値一三%~一九%よりも下回っていて一安心。また、いつかスポーツクラブで測ったときは七%台だったが、これはお客を喜ばせるための甘い測定法だったようだ。

 それと脂肪の多い少ないは腹の出具合だけで判定はできない。脂肪が内臓に付着しているため、見た目では分からないと考えた方がよい。ジャズダンスをやっている細身のお嬢さんでも、計ってみるとパーセンテージが非常に高い場合がある。脂肪の総量は少ないものの体重の割合にすると多いのだ。女性は脂肪がつきやすい体質のせいもある。男性ホルモンが筋肉増殖作用を持っているのに対し、女性ホルモンは脂肪をつくりだす働きを担っているからである。

 

 ジェイシーの村上さんは、学生時代は陸上競技四○○㍍の選手だった。しかし、社会人になってからというものスポーツは一切しなかったので、体重は八○㌔と標準体重よりも一○数㌔太ってしまった。ぼくは彼にジョギングを勧めた。

「村上さん、ジョギングをやってみたら……。きっとお腹もへっこむよ」

「でも、ぼくにできるかなあ」

 村上さんは半信半疑である。

「大丈夫。昔走っていたんだからできますよ。第一、こうしたエアロビクス運動はむしろ中高年から向上するんです。もっとも短距離系の運動はもう無理だけどね」

「そうかぁー。じゃあ、やってみようかな」

「うん。やってみたら。毎日じゃなくていいから。毎日やると疲れちゃうし、故障を起こしてしまうから。一週間に二日ほどやれば十分ですよ」

「よし!それじゃあ、会社が早く終わった日にやろう」

 村上さんは早速、走り始めた。会社の仕事が退けた夜八時頃、重いお腹を抱えて頑張った。夜暗くなって走るので犬に襲われたことも何度かあるという。逃げ惑ったあげく塀によじ登って、かろうじて難を免れたそうだ。

 こんなこともあった。やはり勤めを終えてジョギングしている最中、暗闇の中から小走りで向かってくる犬の姿が見えた。

「やや、また襲われるか?こりゃあ、いつもの犬ではない。いつものよりデカイぞ」

 そこで思わず村上さんはハタッと脚を止めた。するとどうであろう。犬の方もその場にピタッと止まって村上さんの方をにらんだのだ。

「ヤバイ!噛みつかれる」

 村上さんは、おそるおそる右手の塀の壁に沿うように歩いた。いつ襲いかかられても、すぐに塀によじ登れるようにである。ところが、犬の方も村上さんとまったく同じように、相手の様子を伺いながら道路の反対側をそろりそろりと歩きだした。そして両者はその体制ですれ違い、また擦れ違うと同時にそれぞれ反対方向に走り去ったのである。村上さんの額には冷汗が流れていた。

 また村上さんは走り過ぎて膝を痛めたこともあったが、とかく初心者が陥るその故障も克服した。そうしてジョギングを開始してから体重は徐々に減り始め、二年後には標準体重以下にまでになった。ただ体が絞れただけではない。今ではフルマラソンもミドル・ディスタンスのトライアスロンもこなしてしまうようになったのだ。ジョギングを始めてから四年ほどになるだろうか。今年で四○歳になるというのに体はいよいよ引き締まるばかり。トレーニングの量も今ではぼくを遥かにしのいでいる。村上さんの奥さんのヒロコさんは言う。

「日曜日というと家でゴロ寝していたのに、積極的に外へ出るようになりました。なによりも人とよくお付き合いするようになったし、お酒も飲んで朗らかになりました。スポーツをやって人が変わったみたい。ホッホホ」

 

  同じジェイシーの吉本さんもいつの間にかマラソンやトライアスロンに挑戦するようになった。日曜日も仕事に出掛けるなどトレーニングの時間もままならないので、村上さんと同じく夜中のジョギングを続けた。水泳は子供の頃から好きなのでよく泳いでいるそうだが、マラソンは四○の手習いである。

「サクライさん、どのくらい走ればいいんですかね。五㌔ぐらい?」

「いやいや、距離じゃなくて、初めは時間で走った方がいいですよ。たとえば一回三○分とか、馴れてきたら四○分、五○分とかね。走るところはどこでもいいから、気に入った道を走るんです。クルマの少ない道の方がいいですよ」

「ほんとに走れるかなぁー。とにかく学校の運動会で走ったきりだからなあ」

 すべてこんな調子の吉本さんだが、走り初めて一年半でフルマラソンを四時間一六分で完走してしまった。四○歳を過ぎた初心者が悪天候の中、このタイムで走るとは驚きである。そしてジェイシーの練習会でも五○㌔マラソンや五時間マラソンもすべて走り切ってしまう。彼は言う。

「泳いでいても、走っていても、そのたびに発見がありますね。新たな可能性や希望が湧いてきますよ。今までにない自分が見えてくるんです。だからまた何かを期待して練習会に参加しようと思うんです」

 吉本さんたちと一緒に走っていると、ぼくらは「よくよく同じ星の下で生まれたのだなあ」と思わないわけにはいかない。

 ランナーへの夢

 

 ジョギングのとき、よく歌を口ずさむ。走るペースとマッチした歌を、そのときの気分で口ずさむ。そうすると気持ちが爽やかになるのだ。苦しさも忘れる。心も弾む。 フォークもカントリーも、童謡、唱歌、民謡、ナツメロ、ジャズ、ロック、ポップス、ニューミュージック、シャンソン、カンツォーネ、ゴスペルなどなど、なんでも口ずさむ。そのときの気分のまま、思いついたまま歌うのだ。歌詞なんかろくに知らないが、覚えている一小節を念仏のように何回も繰り返す。そのうち音楽が体の中で勝手に鳴りだして、もう自分で歌う必要がない。走るリズムに合わせて音楽が体の中で鳴り続ける。そうなると体も心も一体となって、いつまでも、どこまでも走れる。

 ときに人間は、静止しているだけでなく、また歩いているだけでなく、走らなくてはいられなくなるものだ。二本の脚で大地を駆けていく。この走る楽しさは、走った者にのみ与えられる。そして走る喜びを覚えた人間は、死ねまで走ることを忘れることができない。

 

 ぼくが小学生の頃は虚弱体質で、よく寝込んだり体操の授業も見学することが多かった。授業に参加しても跳箱となると女生徒と一緒にやらされた。男生徒らの五段、六段が飛べないのだ。プールに入っても泳げない女の子たちのグループに加えられ、パチャパチャ水遊びしていただけである。とにかく小学四年生までは運動したことがないのだから、同級生たちと互角に遊んだり競争したりすることは有り得なかった。その分、女の子とばかり遊んでいたが、内心みじめな気持ちでいた。しかし、肉体に対するコンプレックスがぼくをマラソンの道へと誘ったのだ。

「マラソンをして体を鍛えよう」

 中学一年生の夏休みの初日、ぼくは走りだした。駅まで往復三㌔の距離を走った。夏休みの期間中、雨の日以外は毎朝、走り続けた。

「ぼくは男だ。強くなくてはならない」

 その一念だけだった。だから走っていても楽しくはなかった。夏休みが終わるとマラソンは一切やらなかった。クラスの仲間とバレーボールに興じた。そのうち学校の校庭にスポーツの秋の空が広がるようになった頃、ぼくは運動会の一、五○○㍍と三、○○○㍍のマラソンへの出場を希望した。

「えぇ!サクライ、オマエ大丈夫か。ほんとうに走れるのか。三、○○○㍍というと三㌔のことだよ。ここから駅まで行って帰って、また行くんだぞ」

 みんないっせいに「信じられない」といった顔つきをした。一瞬、教室内が静まり返ったのだ。朝礼で並ぶと前から二番目のチビであり、小学生時代にひ弱だったぼくを知る学友たちが疑うのは無理もない。しかし、ぼくは夏休みの早朝マラソンをやって完走する自信があった。「夏休みの成果を試してみたい」と思ったのだ。ところがぼくをクラスの代表選手として推薦してくれる者は誰もいない。結局、ぼくが出場することになったのは、出場を希望する生徒が三人以上いなかったためである。しかし出場が決まると、ぼくのマネージャー役をかって出たクラスメイトがいた。ローボイスで妙に大人びていたナカガワ君である。

 早速、運動会へ向けて練習が開始された。授業が終わり放課後の校庭で毎日走った。ナカガワ君はいつもぼくを見守っていた。

 競争が行われる数日前には校庭にトラックが描かれ、嫌がうえにも運動会のムードがただよい始める。ぼくはナカガワ君の見ている前で三、○○○㍍を走った。そして彼は走り終わったぼくの肩をポーンと叩いて笑った。

「大丈夫だよ。これなら十分走れるよ」

 三、○○○㍍の競争は運動会当日でなく、平日の授業が終わった放課後、学年ごとに行われた。一年生の部も前評判が高い数名の選手の名があがっていて、その者たちはサッカー部や野球部のつわものどもばかりだった。みんな大きくたくましくかった。

「まあ、夏休みのマラソンのつもりでやればいいんだ。とにかく完走しさえすればいい。完走できればクラスのみんなにも顔向けできるだろう」

 ぼくは謙虚にスタートした。三○数名の選手たちの最後方から走りだした。一五○㍍のトラックを二○周するのだが、スタート後二、三周したところで、トップはすでに半周先を走っていた。バスケットボール部の暴れん坊、通称バルボン・カワイ君もトップグループの中にいた。ぼくは完走だけを目指して、なおも後方グループで走った。

「サクライくーん、がんばってー」

 クラスの女生徒が歩きながら声を掛けてくれる。が、立ち止まる様子はない。彼女たちは、まさかぼくが勝つとは思ってもいないのだ。

 しかし、である。学校中のすべての人たちの予想を裏切って、ぼくは一着でゴールテープを切った。みんなバテたようで、ラスト二、三周にはぼくがトップに踊り出て、そのままラストスパートもしないままゴールインしたのだった。ナカガワ・マネージャーの時計によると一二分ちょうどだった。でもゴールして間もなく、ぼくの一着に対し疑義が生じた。つまり、ぼくがトラックを二○周していないというのである。どこからともなく、

「サクライは一九周しかしていない」

という声が起きた。しかし、選手一人づつ周回チェックに当った三年生のお姉さんから周回数は毎回知らせてもらっていたので、自分自身は二○周したことに疑う余地がなかった。でも、ぼくの優勝を認めてくれたのは周回チェックのお姉さんとマネージャーのナカガワ君、それに音楽教師のミタニ先生の三人だけだった。驚いたことに体育の教師はぼくの一着を否定した。結局、教師たちが審議した末、後日「再競争」ということが決まった。

 翌日の学級内でナカガワ君は、

「サクライが一番だ。この目でちゃんの確かめている。間違いない」

と言った。休み時間のたびに彼はそれを言い続けた。でもぼくは特に「残念だ」とか、「悔しい」といった気持ちはなかった。再度走れば解ることだと思っていた。夏休みに毎朝三㌔走ったのだから、「明日また走ってもよい」とさえ考えていた。

 その再競争は運動会の本番前に行う予行練習日に実施された。全校生徒と教師たちが見守る中、一年生だけの三、○○○㍍競争が行われたのである。ぼくは終始トップを引きまくった。しかし最後の一周で力尽き、三人に抜かされて四番となってしまった。でも、前回の競争で一着になったことは、これで証明されたのである。これがぼくのマラソン人生の始まりである。

 

 それから三○年余が経った。現在のぼくの身長は一六四㌢、体重五七㌔㌘、胸囲九二㌢、ウエスト七三㌢である。これら各サイズを陸上競技をやっていた高校生の頃と比べると、小さくなったのは身長と胸囲、反対に大きくなったのは体重とウエストだ。身長は一・五㌢、胸囲は四㌢それぞれ縮まったが、体重は四㌔増、ウエストにいたっては一○㌢も太くなった。完全なオジンの体型になってしまったが、今もなおマラソンを楽しんでいる。一年に一回は四二・一九五㌔のフルマラソンに出場する。記録を狙うのは無理だが、完走を最大の目標にして走る。

 その高校生の頃、ぼくは「マラソン選手になりたい」とも思った。しかし、当時の日本のトップ選手たちのフルマラソンのタイムは二時間二○分前後で、ぼくが走れそうな予想タイム二時間四○分台よりも二○分余りも速い。そして東京オリンピックでエチオピアのアベベ選手が二時間一二分台の世界レコードで優勝したのを見て、世界と自分の能力格差があまりにも大きいことを悟り、マラソン選手はすぐに諦めた。

 でもランニングは続けていた。走ることが好きだったから、ほぼ毎日のように走った。とかく学校のスポーツクラブに見られる「上級生の命令には絶対、従え」といわんばかりの、上意下達の阿呆くさい陸上競技部は辞めて、自分一人で練習した。それでも陸上部の長距離メンバーよりぼくの方が速かった。一○㌔は三四分で走った。しかし、クラブ員でないためにインターハイ(高校陸上全国大会)とか関東大会とか公式の大会に出る機会はなかった。

 そんなマラソン生活を送っていたとき、二四時間以内に東海道一六○㌔マラソンに挑戦することになった。なったというよりも同級生の数人がぼくを取り囲んで、

「サクライ、オマエは長距離が得意だというが、一日でどこまで走れる?日本記録は一六○㌔だそうだが走れるか?」

 日本記録かどうか知らなかったが一六○㌔ならできそうだと思った。

「走ったらどうする?」

「千円賭けよう」

「それじゃあ、オレができなかったら千円払うのか」

「それはいい。走れたら千円やるよ」

「よおーし、やろう!」

 そこで練習期間を設けた後に挑戦することを約束した。それから三ヵ月間余りひとりで八○㌔、一○○㌔をあらかじめ定めた時間内に走り切るトレーニングを続けた。一○○㌔を一○時間でクリアすればなんとか箱根の山も越えて富士川に着くのではないかという考えからだった。しかしこのプロジェクトは、いざやる段になって頓挫した。約束した友達らがひよったのだ。

「済まない、サクライ。まさかやるとは思わなかったから……。これで勘弁」

と言って、みんなからお金を集めてぼくにくれた。千円札一枚だった。当時の千円といえばラーメンが一○杯ぐらい食べられた。それで同級生たちとラーメンを食べにいった。ラーメンを食べながら、ぼくの心の中では「せっかく練習したのにやれなかったことと、やらなくなって内心ホッとした」思いが交錯した。

 今思えば、その頃からぼくはロング・ディスタンス志向だったのかもしれない。しかし目標を失ったぼくは、その後ランニングをやめた。受験勉強もあったが、読書や詩の創作に没頭し始めたからである。毎朝二○㌔ないし一○㌔のジョギングを続けてきたランナーの生活は、そこで一端、終止符を打ったのである。ただ好きなサイクリングは続けた。父親のロードレーサーを無断で借りだして、関東平野のあちこちを走り回っていた。

 

  それから一○年後、再びぼくは走りだした。その間も時折、芝生広がる公園や海辺の砂浜に出合うと素足で駆けだしたりしていたが、トレーニングとして再開したのは三○歳になろうという頃である。しかし、このときも競技会に出場するためではない。単に走ることが好きだったからである。

 広い野原で走るのも気持ちのいいものだが、大自然の山の中や、草木の生い茂る公園の中もまた楽しい。楓の下を走るときは、乙女たちが手を組んでつくってくれたトンネルをくぐる思いがする。柳の下は、ゆかた姿のお姉さんと湯上がりで盃を交わす思い。桜の花の下はただ単にアッケラカンとして、ぼくの好みではない。むしろツボミの赤く膨れ上がった、明日には花開く間際がよい。桜の精気が迫ってくる感じだ。

 近くの公園でジョギングすると梅の林の中を通る。花も実も成り終えてギザギザの厚い葉っぱで覆われた梅の木は、なぜか妖艶な気配さえ感じる。歌麿の浮世絵ではないが、傍らで色年増が扇子をあおいでいる風情だ。だから梅の木の下では最後まで走ることはない。五周するところを四週とか三周とか途中で切り上げる。最後まで走ると梅の妖艶さに誘惑されてしまいそうだから。

 ぼくは草よりも樹木が好きである。花も草花より木の花を好む。梅、山吹、藤、萩など枚挙にいとまがない。特に夏の木の花はいい。百日紅(サルスベリ)の赤、白、桃色の花が風に揺れているさまは可憐である。額から溢れる汗を腕で拭いながら百日紅のごとく、長い夏の日を走る。

 

 一九七八年二月、ハワイのオアフ島で第一回アイアンマン大会が開催された年、それは日本においてジョギング・ブームが起きた年だったが、その頃ぼくは腰痛に悩んでいた。走り過ぎが原因で右の腰から脚に強い痛みとしびれが続いた。座薬を使わないと夜中に痛んで眠れなかった。腰に注射を射ったり電気針の治療をしたが一向に治らず、結局、腰痛体操を一年半ほど続けて癒した。腰痛が発生してからこの間、四年余の歳月が流れた。アイアンマン大会に出たいと思い続けていたが、なにしろランニングができないのだから話しにならない。皆生大会への参加も諦めざるを得なかった。 ランニングで故障を起こしているときは、当然のことながら痛くて走れない。しかし医療措置の必要がなければ、やはり「走って起きた怪我は走って治す」のが原則だ。だからゆっくりゆっくり、土の上で走る。膝を故障したときは自宅から五㌔先の陸上競技場へ自転車で乗りつけ土のトラックの上を走った。冬の寒い朝、冷たい木枯しに吹かれて鼻水が流れもした。しかし、

「この膝を治さなかったら、マラソン大会もトライアスロン大会にも出られない」

 そう思いながら一日置きぐらいに通った。あのときは「ほんとうに寒かった」。なにがぼくをそこまで突き動かしたのか、あのときのつらさが思い起こされる。その後もたまに膝の痛みと付き合いながらマラソンを走っている。最近は練習量が少なくなってきたこともあって痛むことはほとんどない。でもランニングは、怪我や故障との戦いでもあるのだ。

 

 最近のぼくのランニング道場は小さな公園の中の小さな少年野球場である。一周二○○㍍ほどの野球場の外周をフェンス一杯に走る。立派なトレーニング・フィールドとはいえないが、狭くても都会では我慢しなければならない。土の上で走れれば有難い。コンクリートの道とは違った柔らかい土の感触はランニングに優しさを与えてくれる。

 その少年野球場には朝も夕も毎日走っている、ここの道場主とでもいうべきランナーがいる。ランニング一徹居士の小島さんである。

「おはようございます」

 猛スピードで走りつつ小島さんは挨拶をする。少年野球場に入ってきた散歩のお爺さん、ウォーキングのおばさん、太極拳のおじさん、犬を連れた娘さん、サッカーのお兄さんたちみんなに、彼は走りながら挨拶する。ぼくより先にきていて、ぼくより速いスピードで走っているのだから相当な運動量である。すでに彼のシャツは肩から背中にかけて汗で染みていた。

 小島さんとは毎年秋、地元の中野区マラソン大会で一緒に走る。といってもスピードはぼくとケタ違い。彼は一○㌔を三四分で走るのにぼくは三八分もかかる。だから小島さんは毎回入賞するが、ぼくは二○位ぐらいにとどまっている。同じ歳だというのに実力のほどはぼくより二枚も三枚も上である。やはり熱心に真面目にトレーニングを積み重ねた人にはかなわない。市民ランナーのレベルは、よく練習した人が強いのだ。                               

 ただぼくも、このローカル・マラソン大会五㌔の部で五位になったことがある。特別練習したわけではないが四○歳になって参加資格が得られたので走ってみたら入賞した。記録は一七分五九秒だった。大人になってランニングの入賞経験はこれ一回のみである。ついでながら妻のノリコさんもこの大会で入賞したことがある。ジョギングを始めて一年目のことだったが、まったくのまぐれで四位になってしまった。速い人が参加していなかったのだ。するとぼくの入賞もまぐれだったのだろうか?

(つづく)